2018年6月のみことば

全てを満たして下さるイエス様

 彼らは、荒れ野で迷い砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、渇き、魂は衰え果てた。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き人の住む町に向かわせてくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
               (詩編107編4-9節)

 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
               (エフェソの信徒への手紙1章17-23節)


母の日を覚えて
 5月13日は「母の日」でした。お母さんに、カーネーションを贈ったり、プレゼントをしたりと、日ごろの感謝をこめて敬意を表する日として浸透しています。この「母の日」は教会の暦における祭日ではありませんが、アメリカ、ウェスト・ヴァージニア州のウェブスターにあるメソジスト教会の伝統に由来しているといいます。母が日曜学校の教師をしていた教会で、娘のアンナ・ジャービスが亡き母親を偲んで記念会を行い、娘アンナは参列者に母親の好きだった白いカーネーションを贈ったのです。このことが、「母の日」の出来事として日本に伝わったのです。

 私たちには、例外なくそれぞれの母とのつながりがあります。旧約聖書においては神様からの十の掟である「十戒」がモーセに示されましたが、その第五戒に、「あなたの父と母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト記20章12節)とあります。私たちが生まれてから絶えず私たちを守り、愛し、育ててくれた母がいます。その母への、感謝と労わりの気持ちを大切にしたいと思います。

 スイスのジュネーブという都市で宗教改革を導いた、あのジャン・カルヴァンは、天地の造り主である神を父とする全てのキリスト者に対して、教会は母であるということを説いていました。私たちの信仰は母である教会によって養われ、育てられるというのです。本日与えられている聖書のみ言葉である、エフェソの信徒への手紙1章23節には「教会はキリストの体であり、すべてにおいて、すべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と言われています。信仰を養う母であると言われている、「教会とは何か」について、エフェソ書の言葉を通じて見てゆきたいと思います。

聖霊の満ちている教会
 さて、「教会」と聞くと、教会の会堂や礼拝堂などの建物を思い浮かべるかたも多くいらっしゃると思います。聖書で語られている「教会」というのは、建物というよりも、イエス様を信じる人々の集いのことを言っていて、イエス・キリストを救い主として信じる人が集まり礼拝する所に、「教会がある」と言うのです。教会の暦では、5月20日の聖霊降臨日(ペンテコステ)以降、6ヶ月ほど「聖霊降臨節」と呼ぶ期節です。かねてからイエス様が約束して下さっていたように、聖霊が弟子たちに注がれることによって、教会は誕生したと言われ、ペンテコステは教会の誕生日であるとも言われています。なぜなら、聖霊が注がれて満ち満ちている所に、イエス・キリストを信じる群れ(教会)が誕生したからです。また、エフェソの信徒への手紙1章17節には、聖書の神様を「御父」(父なる神)、「主イエス・キリスト」(子なる神)、「知恵と啓示の霊」(聖霊なる神)と、三位一体の神様として示しています。教会は、三位一体の神様によって誕生し、支えられているのです。

 聖霊が注がれると何が起こるのかというのは、使徒言行録2章に実際に聖霊降臨の出来事を記されていますが、本日の箇所にも、この聖霊の働きについて書かれています。同17~18節には、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。」と祈られています。
 聖霊とは「知恵と啓示との霊」であり、わたしたちが「神を深く知ることができるように」、「心の目を開いてくださる」というのです。ルカによる福音書24章に、復活されたイエス様が弟子たちに現れた話の中でも、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱えて、パンを割いて弟子たちにお渡しになった時、「二人の目が開け」、目の前に立っている方が復活されたイエス様だと気づき、認識したことが記されています。

 イエス様の十字架の死からの復活というのは、人間の経験や知識を超えた神様の奇跡の出来事です。その出来事は、私たちを憐れみ、私たちを救って下さる神様ご自身が私たちの心を開いて、悟らせてくださらなければ理解できないのです。そのために、イエス様はそのご自身の体によって救いを成し遂げるだけではなくて、その救いの出来事を理解できるように、私たちを助ける存在をも与えて下さいました。それが、聖霊なる神様であります。その聖霊なる神様が満ちているのが教会なのです。「聖霊は、どこにおられるのか」という問いに対しては、教会に行くことによってその恵みを体験することができると言えます。なぜなら、教会には聖霊が満ちているからです。

希望が満ちている教会
 また、教会には、神様によって与えられた希望が満ちています。それは言い換えるならば、救いの希望であり、困難・不安の中にあるものが神様により満たされるという恵みの希望です。18節に「神の招きによって、どのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐ者がどれほど豊な栄光に輝いているかを悟らせてくださるように。」と祈られています。

 ここ十数年で、使われるようになった言葉に「リア充」(りあじゅう)という言葉があります。どういう意味かといいますと、「リアルライフ、つまり現実生活・実生活が充実している」という意味です。なぜリアル(現実)という言葉が出てくるかというと、そこにはパソコンやインターネットが普及して、リアルではないバーチャル(仮想現実的)な関係性が増えていったという背景があるようです。インターネットの普及によって、不特定多数の人とつながることが容易になり、また本名や顔を知らない人とも会話が出来るという環境で、一定の距離を置きながら人間関係の輪を拡げることが可能になっています。その反面、実生活において信頼できる親友がいない、或いは家族との関係が疎遠になったり、学校や職場など実際に顔を合わせる人間関係の構築が上手くいかない、という問題があるようです。そんな中で、学校や職場、プライベートでの人間関係が恵まれていると感じる人に対して、その人たちのことを羨んで「リア(ルが)充(実している)」と表現するそうです。ですから、この言葉は「充実感」、「充足感」、「満ち足りていること」を感じているを表現する言葉というよりも、「充実していない私や私たち」を映し出す言葉となっているようなのです。

 私たちのだれもが多かれ少なかれ持っている「満たされたい」という願いに、答えて下さる神様の姿が、旧約聖書の詩編107編に語られています。
 「恵み深い主に感謝せよ、主の慈しみはとこしえに」と信仰を告白し、賛美しているこの人たちは、主である神様によって苦難から救い出された人々でした。飲み水や食料が枯渇した状態で、荒れ野や砂漠で町への道を見失った人々です。それは死を意味する危機の状態でした。「飢え、渇き、魂が衰え果てた」とあります。しかし、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。」というのです。それだけではなく、主は、この荒れ野や砂漠をさ迷っていた人々に道を指し示し、人が住む町へと導かれたというのです。「主は乾いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たして下さった。」と感謝の言葉でこの箇所が閉じられています。

 私たちの「満たされない」という嘆きは、誰に向けられているでしょうか。詩編107編では、はっきりと「主なる神様に対して嘆いている」のです。神様への祈りとなっているのです。神様が私たちの不足を満たして下さるという信仰がその根底にはあるのです。現代を生きている私たちも、その不足分を満たして下さる方を知っているかがとても重要になってくるのです。私たちが普段、「充実している」と思う時には、そこには良好な人間関係があるかもしれません、職場や家庭の環境が平穏であったり、或いは使命感が与えられていたり、私たちの周りに理解者がいたり、お互いに助け合うパートナーがいたりするということも、この充実感・充足感につながるのかもしれません。しかし、イエス様は、私たちを満たすことができる最も重要な「神様と私たち人間との関係」を示して下さっているのです。

 私たちが祈り求めるとき、そこには私たちを絶えず憐れみ、導き、必要を満たして下さる神様がおられるのです。また目の前の人間関係が、神様によって祝福され、また恵みとして与えられていることを私たちが気づく時に、私たちは今、与えられている一つひとつの関係に感謝し、その関係を大切にすることができるのです。私たちは、日曜日に教会の礼拝に行く時にも、そこには教会という関係が礼拝を通じて与えられているのです。神様が中心に立っておられ、私たちの必要を全て満たして下さるという希望に満ちた関係が、教会なのです。

キリストの栄光に満ちた教会
 最後に、教会とはキリストの栄光に満ちている場所です。エフェソの信徒への手紙18節後半では、そこには「私たちがイエス様から受け継ぐ豊かな栄光がある」と言われています。世間一般的に言われる「栄光」とは何かの競技で優勝した時に、「勝利の栄光」といったように勝者に与えられる誉れとして理解されることが多いと思います。しかし、聖書の中で語られる「栄光」というのは、神様の光の照り返し、或いはイエス様の光の照り返しということです。つまり、私たちに「栄光」というものが与えられるのだとすれば、その栄光の輝きというのは、イエス様の輝きに由来する輝きなのです。

 では、イエス様の輝きというのは、どういうものなのでしょうか。同19節~20節に、天の父なる神様が信仰者に対して示される力というものは「絶大なもの」であることが強調されています。しかし、この「神様の絶大な力」というのは、私たちキリスト者を超自然的なスパーマンのような存在にするのではなくて、むしろイエス・キリストに神様の力が注がれたということです。神様の力は、イエス・キリストを十字架の死から復活させ、そしてキリストを天へと引き上げ、被造物の全て、地上の全て、宇宙の全てを恵みによって支配する万物の王として下さったのです。神様の力がイエス様の上に絶大に発揮されたと聞くと、それでは私たちはその神様の力の恵みを受けているのであろうかと、疑問や不安になるかもしれません。しかし、イエス様に起こった出来事というのは、私たちキリスト者の集まりである教会にも起こることなのです。イエス様と教会は運命共同体なのです。

 ですから、十字架のイエス様、復活されたイエス様、天へと昇られたイエス様を見上げるとき、教会もイエス様と同じ道を歩み、同じ恵みを受ける希望が与えられていることに気付かされます。そして、今は天の父なる神様の右の座におられるイエス様が、私たち人間の罪のために執り成しをして下さっているのであれば、教会もそのイエス様の体を体現するものとして、この世界に仕えるために務めるものとされています。イエス様が、この世界に生きる人々を、愛と憐れみをもって統治しておられるように、教会に連なる私たちも、愛と憐れみをもって、日本社会に、そして世界に関わるものとされているのです。その原動力というのは、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」という祈りにも示されているように、神様を知ることにあるのです。

愛によって造り上げられる教会
 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です。」(同23節)
 ここで「すべてにおいてすべてを満たしている方」というのは救い主イエス・キリスト(御子なる神様)のことを指しています。御父なる神様が「あらゆる名の上に置かれ」た御子イエス様ですが、そのイエス様はご自身のことについて、「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10章45節)、私たちのもとに来たことを告げておられます。その様子は、イエス様が自ら謙虚な僕となり、私たちを救うため、十字架に向かって行かれた、イエス様が受けられた御苦しみのなかに見ることができます。その愛を受け取った私たちには、私たち自身も自ら謙虚に他の人に仕える道が開かれているのです。「愛によって造り上げられる」とは、イエス様は、信仰が崩れ行く弟子たちを愛して、憐れみ・配慮し・忍耐して立ち直らせて下さったように、私たちも神の憐れみを受けた者として、深い洞察力をもって、また広い心と忍耐や配慮をもって他の人を思い、他の人に接することができるということです。時には、私たち自身の足りないところを省み、反省することでもあります。また時には、周りの人の良い所や、愛の働きを発見し、私たちがその人に倣ったり、またはその人の働きが良い実を結ぶことができるように祈り、また一緒に支えることでもあります。あるいは困難や戸惑いの中にある人のために、私たちが祈りをもって耳を傾け、その人が前向きに神様の導きと支えを信じて歩みだすことができるように働きかけることでもあると思います。たとえ、一人の力ではできなくとも、復活されて罪に勝利されたイエス様がおられる教会においては、互いに支え合いながら、互いの良い所を生かしあう関係が与えられているのです。ある牧師が、「失敗の反対は成功ではなくて、失敗の反対は教会です!」とおっしゃっていたことがとても印象に深く残っています。

 日曜日の礼拝とその後の交わりの会、祈祷会や様々な集会、教会において行われる全てのプログラムは、こうした神様の恵み、イエス・キリストの恵みによって支えられ、私たちに生きる活力を与えるものです。その意味で、教会とは相互への関わり合う共同体でもあるのです。

 イエス様は、十字架上で、御自身の命を差し出して、最も貧しい存在になってくださいました。しかし、天の父なる神様はそのイエス様を復活させて、絶望の中で全てにおいて渇くイエス様を、全てにまさる栄光で満たして下さいました。こうして人間の不足と弱さの極まる所であっても、私たち人間の貧しさに代えて、永遠の命と希望で満たして下さる神様が、私たちと共にいることが示されたのです。「キリストにより、身体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソの信徒への手紙4章16節)と言われています。キリストに注がれた神様の力が、今は愛の力として教会に注がれています。教会と共に生きて働いて下さっている主イエス・キリストに期待して歩ませて頂きましょう。
本庄教会 疋田義也牧師
(ひきた よしや)





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