2018年9月のみことば

神に対して生きる

 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい
              (ローマの信徒への手紙6章11節)

 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
2章
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
               (エフェソの信徒への手紙1章4節~2章10節)


 エフェソの信徒への手紙1章4節~2章10節を念頭に、ローマの信徒への手紙6章11節「罪に対して死に、神に対して生きる」の特に後半について聞こうと思います。

 この話の発端は、「恵みが増すように罪に留まるべきか」という話題でした。
 聖書がわたしたちに与えてくれた福音は、誰も行いによらず、神から賜物として、神の恵みをいただくという「信仰義認」です。「信仰義認」とは難しい言葉ですが、人間の功績による道とは違う、神様からの恩恵が与えられる、つまり、「神が、私たちを義であると受け入れてくれる合格点」と考えてみましょう。この合格点(恩恵)こそ、わたしたちが神と正しい良い関係にいる(義認)ということです。私たち人間が努力して善いことを行っても、合格点には届きません。そこで、私たちの努力とは関わりなく、神が合格点(恩恵)を与えてくれるとしたら、あなたはどのように思うでしょうか。

 現代でも時には聞かれることがありますが、ユダヤ人パウロがいた2000年前にも、この恵みのことを、自分の都合の良いように考える人たちがいました。「福音によれば、私たちが善い行いすることで、義と認められるのではないのだから、私たちが良い業をすることは重要ではない。」さらには、「神は赦し、受け入れて下さるのだから、悪いことをしても、赦していただける、どうせならたくさん赦していただいて、恵みは大きい方がいい。」と、考える人たちがいたというのです。
 パウロは「そうではない!」と、忍耐強く対話を展開しているのがこの手紙です。

 わたしたちが働いて得るのは「報酬」です。労働の対価として、もらう権利があります。それに対して、ふさわしくない者にも与えられるのが「恵み」です。「恵み」は、それを与える方の心を受け取る事です。神の恵みをいただくには、私たちがそれをどのように受け止めるか、応答するのかという、わたしたちの生き方が問われます。
 
 わたしたちの生きる目的は、神の義を得ることではなく、(私の功績に関係なく)神の義を得た者として、与えられた者として、与えてくださるお方のお心、つまり恩恵に応答して生きることです。恵みとしていただいたにも関わらず、いただかなかったかのように生きるのではないのです。その意味で、わたしたちの人生は、神に対して、生きるということになります。ですから、神の恵みをいただいているのに、なお罪の中に留まり、罪を重ねることは、「恵み」の本質に逆らうことです。「恵み」をくださった神に、感謝し、応答する、それが「恵み」をいただいた者の姿ではないでしょうか。

あなたは今、「恵み」をくださった神に対して生きていますか?

 聖書は「主イエスは、律法の下に女から生れ、人の世の苦しみを全て味わい、罪と死の苦しみに身を置かれた。しかし今や、主イエスは死者の中から蘇って、死は、主イエスを支配しない。」と言っています。主イエス様が、地上に生まれて来られたその顕れ方は、宮殿や豪華な家に表される栄光を脇にのけて、家畜小屋であり、その寝床は飼い葉桶でありました。そしてこれこそが、イエス・キリストが、神に対して生きておられる姿だ、と聖書は言っています。

 それと対になるのが、「わたしたちがキリストと共に復活し、天の王座に坐らせてくださる」(エフェソの信徒への手紙2章6節)ことで、これは何と凄い恵みでしょうか。キリストは家畜小屋に、私たちは天の座にとは。

 神に対して生きるとは、神がご自分の御子を、墓の中から導き出すのと同じ力が、私たちの内に働いているという事です。この神の招きによって、私たちに与えられる望みが、いかに栄光に富んでいることか、神の絶大な力の働きが、どれほど大きいか、私たちの目を開かれるように、また私たちが悟るようにと、パウロは祈っているのです。

 神様は、キリスト者を、神に対して生きる者としました。
 これは祝福です。私たちは、神の怒りの下には居ないという事です。かつてはそこに居ました。苛立ちと、人生の不足への不満を、私たち人間は感じていました。しかし、今の私たちは、キリストを通して足りなさから解放されました。何故なら、私たちは、神の子と同じくらい愛され、大事にされているのですから。そうは言われてもよくわからないと思うなら、この事を、じっくり黙想すると、不足は解消され、苛立ちは消えていることに気づくはずです。どうぞこの神の祝福をじっくり黙想してみて下さい。

 世界の、あらゆる苛立ちが消えればいいと思います。けれども、現実は、そうはなっていないことにも気づいています。だからこそ、先ず、私たちが、神の祝福を余すところなく受け取るのです。キリスト者が、たとえわずかでも、社会に存在している意味がここにあります。たとえわずかであっても、居なければならない人々です。

 神に対して生きる者は、神の恩恵の中にあるのです。神の目的とは何でしょうか。『神はわたしたちを愛して聖なる傷の無い者にしようと…』(エフェソの信徒への手紙1章4節)
“わたしたちを聖なる者とする”この目的が、私たちの中で、形を取って、実行されつつあります。主イエスから命を受け、力を受ける事から、このことは起こっています。キリストの共同体の身体の部分となって、その部分の力量にふさわしく働く力を、供給されています。頭であるキリストに結び合わされて、体の部分である私たちは、維持されていくのです。身体は、滋養を供給される必要があります。血管を通し、神経を通して、つまり継続して礼拝する事が、それです。神に対して生きるという事です。

 「わたしは命のパンである」、と言われた主イエスが、「わたしに来る者は決して飢えることがない、渇くこともない」とも言われています。キリストにつながって、神が私のために、ご自分のご計画を実行しておられます。神は、私を、キリストに結び合わせ、キリストに植え付け、私がキリストから力をいただくようになさったのですから。だから、キリストにつながって、生き生きと生きていたいと願います。

主の祈り   「主イエス・キリストが教えてくださった祈りを祈りましょう」
 天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みに合わせることなく、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは限りなく汝のものなればなり。

久美愛教会 鈴木佳子牧師
(すずき よしこ)





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