2018年11月のみことば

キリストに連なる

 見よ、主が傍らに立って言われた。
 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
 ヤコブは眠りから覚めて言った。
 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
                  (創世記28章13~16節)

 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、 エッサイはダビデ王をもうけた。
 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
                  (マタイによる福音書1章1~17節)

系図から始まる。
 マタイによる福音書の書き出しは、アブラハムからはじまって、イエス様に至るまでの系図から始まっています。この系図というものは、旧約でも新約でも聖書を読んでいると度々、登場することがあるのですけれども、名前だけがずらずらと書いてあって読んでみてもいかにも退屈である、だからなんだというのだろう、そのような感想をお持ちになる方もきっといらっしゃるのではないかと思います。確かに、この系図というものは、イエス様のたとえ話や有名なエピソードと比べると、大変に地味な箇所であって、どうしても重要な聖書の御言葉としては受け取りづらいところがあります。率直に申し上げて、なかなか顧みられることの少ない聖書の箇所なのではないか、と思います。

 しかし、そのような系図であるのですけれども、実はここには私たちが聞くべき重要なメッセージが込められているのです。本日は、この系図から特に3つのことを見ていきたいと思います。それは、まず一点目に、イエス様がどのようなお方であるかということ。そして第二にこの系図に連なる人たちとは、はたしてどのような人物であったかということ、三点目には、この系図にはイエス様から先があるのだ、ということです。

イエス様とはだれか?
 さて、第一の点、イエス様がどのようなお方であるかでありますが、この系図は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しで始まっております。これはどういうことかといいますと、イエス様はアブラハムとダビデの子孫としてお生まれになった、ということなのです。しかし、これは単に血縁上のつながりだけを意味しているのではありません。

 それでは、アブラハムの子孫であるということはどういうことか。それはイエス様が、今回あわせて聞きました旧約聖書に書いてあった「約束」を受け継いだ方であるということなのです。創世記28章14節にはこう書いてありました。「地上の士族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」この言葉は、アブラハムの孫にあたるヤコブに対して語られているのですけれども、神様はこの約束の言葉を、初めにアブラハムに告げられた。そして、この約束の言葉はアブラハムからイサク、そしてヤコブに受け継がれ、そして長い時を経てイエス様が受け継いだ、ということなのです。とりもなおさずイエス様がアブラハムの子孫であるということは、このアブラハムに語られたこの約束をイエス様が受け継いでいるんだ、ということなのです。

 そしてまた、ダビデの子であるということはどういうことなのでしょうか。それは、決して、イエス様がダビデという高貴でやんごとない血筋を引いているということではありません。このダビデの子であるというのは、まさしくイエス様が、神様が旧約聖書を通して預言されていた救い主であることを示しているのです。旧約聖書において、神様は、「ダビデの家系から救い主が生まれる」ということを預言者の口を通して語ってこられました。例えばそれは、有名なイザヤ書11章1~2節の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」という預言です。これ以外にも預言者たちは絶えず、ダビデの子孫から救い主が生まれるということを証してまいりました。つまり、イエス様がダビデの子孫であるということは、この神様の「ダビデの家系から救い主が生まれる」という約束が、イエス様において確かに実現したのだ、ということなのです。

 すなわち、この系図が、「アブラハムの子、ダビデの子、イエスキリスト」という言葉で始まっているのは、イエス様が二千年前に急に降って現れたような人ではなくて、まさしく旧約聖書に預言され、旧約聖書の約束を受け継ぐ、聖書の時代の人々が待ち望んだ救い主なのである、ということを表しているのです。

系図に名を連ねる人たち
 それでは、第二の点である、この系図に名前を連ねる人はどのような人物であったか?ということについて見ていきましょう。
 ただ、そのことを見ていく前に、一つのことを確認しておきましょう。それは、そもそもこの系図に名前を連ねる、とはどういうことなのか、ということです。

 もちろんそれは、単純に言うならば、イエス様はこの系図に書いてある人たちを通ってお生まれになりましたよ、という、イエス様に至るまでの単なる通過点として様々な人の名前が書いてある、ということになると思います。しかし、実はそれだけではないのです。そこで、改めて私たちが覚えていたいことは、この系図とは、神様の救いの歴史なのだ、ということです。つまり、この系図に名前を連ねる人たちは、イエス様へのただの通過点として系図に乗せられているのではないのです。イエス様に向かっていく神様の救いの歴史において、神様から特別に選ばれ、祝福を受けて歩んでいった人たち、それが、この系図に名を連ねる人たちなのです。

 それでは、どういう人たちが神様から選ばれたのか?この系図は先にも申した通り、アブラハムという人から始まっております。アブラハムという人は、聖書の多くの箇所で「信仰の父」とあだ名される人であります。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムから系図が始まるということは、この系図に名を連なる人たちは、みな優れた人物、正しい人物であったのかと言われれば、実はそうではないのです。むしろ、この系図に名を連ねる者たちは、絶えず罪を犯し、神様を裏切り、本来であれば、神様の救いからは遠く離れているような者たちであったのです。

 実は、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムもそうだったのです。彼は神様が告げることが必ず実現すると信じることができませんでした。彼は、高齢になったアブラハムとサラとの間に男の子が生まれることになるという神様の言葉を信じることができず、こう言うのです。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」(創世記17章17節)
 
しかし、神様はアブラハムの不信仰にもかかわらず、男の子を与えられました。祝福をアブラハムで途切れさせることなく、アブラハムの後に続くものを、彼の祝福を受け継ぐ者を与えられたのです。アブラハムは、そのことによって自らが神様の救いの歴史の中に入れられていることを信じ、それ故に、信仰の父と呼ばれるようになりました。このように信仰の弱いアブラハムを神様は用いられ、そのようにして、救いの歴史は、途切れることなく進んでいったのです。

 今回は、この系図に連ねる人の一人一人についてみていくことは致しませんけれども、この系図に名を連ねる人たちは、あの有名なヤコブもダビデもソロモンも絶えず罪を犯し続けました。偶像礼拝によって神様から離れていこうとする者たちもおりました。また、系図の中には当時の社会においてつまはじきにされるような異邦人や、姦淫の罪を犯した女性も含まれております。その意味で、救いの系図とは罪びとの系図と言い換えてもよいのだと思います。私はそのような者たちを用いる神様の救いのご計画の不思議さに率直に驚きを覚えます。しかし、神様はこのように本来ならば、神様によって見捨てられるべき罪びとを用いて、救いのご計画を進められたのです。

 そしてここで私たちは今、改めてヤコブに告げられた神様の言葉を覚えていきたいと思うのです。今日お読みした創世記28章15節で神様はこう語られていました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 この言葉通り、神様は決して罪びとを見捨てることなさいませんでした。確かに系図に名を連ねる人たちには様々な苦しみが襲い掛かりました。大事な人を亡くす苦しみ、自分たちの国を亡くす苦しみ、それらの歩みは決して安らかではいられないものだったでしょう。しかし、神様が自分たちを決して見捨てない方であることを信じ、ひたすら彼らは歩んでいったのです。

 そして本当に長い時を経て、その人たちのために、そして私たちのためにイエス様がこの世界のただなかに人となってお生まれになった。アブラハムの約束を受け継ぎ、ダビデの子としてお生まれになったまことの救い主として。

キリストに連なる
 その救い主としてお生まれになったイエス様は、アブラハムの約束を受け継ぎ、そしてその約束を成就させてくださったのです。私たちもまた、この系図に連なる者たちのように、絶えず神様から離れていこうとするただの罪びとの一人であるのかもしれません。弱い信仰の持ち主でしかないのかもしれません。しかし、その私たちのために「地上の士族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」という約束を現実のものとするため、イエス様は私たちのために十字架にかかり、そして私たちの罪を許し、私たちを神様の祝福の中に入れてくださったのです。私たちはまさしく、イエス様によって現実のものとなった救いに今、生きているのです。先に申しました第三の点、「この系図には絶えずイエス様から先がある。」とは、そういうことなのです。私たちはイエス様へ向かっていく系図を経て、イエス様の十字架によって打ち開かれた、イエス様からはじまる新しい救いの系図、救いの歴史を今生きているのです。

 イエス様から二千年間この救いの系図はずうっと受け継がれ、多くの人たちを経て、今の私たちがあります。そして、私たちは、救いが私たちにつながれていったように、この救いの歴史の系図をずっと未来につなげていきたいと思うのです。きっとそのことはたやすいことではないと思います。

 しかし、今再び神様の約束の言葉を思い出してください。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」私たちの信仰の歩みもまた、様々な苦しみや罪の中に置かれているのかもしれません。しかし、私たちは決して一人で信仰の歩みをするのではありません。イエス様とともに歩むのです。イエス様と私たちとの間には、時間の流れでいえば、確かに二千年もの開きがあります。しかし、二千年の時は、イエス様と私たちを隔てるものには決してなりえないのです。それは、神様が私たちに約束された通り、イエス様は、今も私たちとともに歩まれているからです。私たちはこの共におられるイエス様にどこまでも信頼し、信仰を守りながら、救いの歴史の系図を未来へ繋いでいきたいと思うのです。

大宮教会 高橋真之伝道師
(たかはし さねゆき)





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