2018年12月のみことば


私たちの間に宿られた神

 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
                  (ヨハネによる福音書第1章14節)」
 

 福音書記者ヨハネは、クリスマスの出来事を指さして告げています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。マタイとルカが描き出す降誕物語に慣れ親しんでおりますと、ヨハネの告げる言葉を前にして、少々戸惑いを覚えることになるかもしれません。ここには、私たちがクリスマスの物語として慣れ親しんでいる情景描写は何ひとつ記されていません。ベツレヘムの家畜小屋に宿を取ったヨセフとマリアの姿はありません。生まれてすぐ飼い葉桶に寝かされた幼子の様子が描かれているわけでもありません。東の国から、まことの王として生まれた方を拝みに来た学者たちも登場しませんし、天使のみ告げを受けて、生まれたばかりの救い主のもとに駆けつけた羊飼いたちも出てきません。けれども、紛れもなく、ここに、クリスマスの出来事が証しされています。私たちが、クリスマスの物語として、美しい絵画のように心に思い描いている情景を、ヨハネは、短く、鋭い言葉で、端的に証ししたのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。それは、言ってみれば、信仰によって捉えられたクリスマスの中身、クリスマスの意味を説き明かしている言葉です。

 「言は肉となった」。何か神秘的な響きさえ感じられる表現です。「言の受肉」と呼ばれます。もちろん、ここで言われている「言」というのは、この福音書が最初から証ししている「言」です。福音書の冒頭、1章1節に記されています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。ヨハネは、クリスマスの出来事を語る際に、神の創造の御業を思い起こしています。旧約聖書の一番初め、創世記の冒頭に記されている天地創造の物語を思い起こしながら、この世界と人間の創造以前に思いを馳せたのです。天地万物が造られる前に、永遠に神と共にあり、神であった言が、肉となった。それが、クリスマスの出来事の本質的な中身である、と証ししたのです。「言は肉となった」。もう少し分かりやすく言い換えれば、「神が人となった」ということです。もちろん、そのように言い換えたからといって、事柄そのものが分かりやすくなるわけではありません。一体、神が人となったというのは、どういうことか。一体、何のために、神が人となったのか。問いはさらに膨らんでいくでしょう。しかし、大事なことは、クリスマスの出来事は、神から始まったと言うことです。だから、神さまの側から見なければ、その本当の意味と目的は分からないのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。ヨハネは、今から2000年前に、ユダヤのベツレヘムで起こった出来事を、ただ地上に住む私たちの側から見える光景として描くのではなくて、神さまの側から、永遠の側から跡付けようとしています。たまたま優れた宗教的な指導者が生まれて、その口を通して語られた教えやその手によって成し遂げられた不思議な業が、後の世の人たちにまで大きな影響を与えるようになった、というようなことではない。世界と私たち人間をお造りになった神である言が、造られたこの世界の中に、私たちと同じ人間の一人として宿られた。だからこそ、私たちは、クリスマスの出来事の中に、神さまの栄光を見ることができるのです。ヨハネは言いました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。しかし、ヨハネが指し示している栄光は、誰の目にも明らかであったわけではありません。目に見える現実としては、家畜小屋の中の薄汚れた飼い葉桶に寝かされた弱々しい赤ん坊の姿があるだけです。この世からは完全に無視され、排除されたような貧しさの中に、神さまの独り子はお生まれになったのです。しかし、ヨハネは、この幼子の姿を、信仰の目をもって見つめました。神さまの側から捉えました。だからこそ、この貧しさの中に、父なる神さまの独り子として栄光を見ることができたのです。

 神さまの独り子であるイエス・キリストの存在について、世々の教会が大切な信仰箇条として掲げてきた告白の言があります。「まことに神、まことに人」と言います。これも謎のような言葉として響くかもしれません。しかし、とても大事な信仰を言い表しています。イエス・キリストは、ただ一人、まことの神でありまことの人である方、と告白するのです。神は、この世界と私たち人間をお造りになった方です。人間は神によって造られたものです。造り主と造られたものとの間には、質的な違いがあります。神は永遠なる存在であり、私たちは、時間と空間の制限の中に存在しているのです。だからキリスト教信仰においては、神と人との連続的なつながりというものは存在しません。仏教の教えにおいて、人間は死んだら仏になると言われるように、人間が神になるということはないのです。むしろ、造られた者であり限りある存在に過ぎない人間が、絶対者である神のようになろうとすること、あるいは、神のように振る舞うことは、最も大きな罪であり、あらゆる罪の根っこであると言っても良いと思います。それこそは、最初の人、アダムとエバが陥った罪でした。最初の人は、サタンの巧みな言葉に乗せられ、神のようになるという魅力的な誘いに負けたのです。そして、神から食べるなと命じられていた木の実を、食べてしまいました。神の言に対する不従順の中には、自らを神よりも偉いものとみなす傲慢が潜んでいます。この不従順のゆえに、神と人との関係はねじれてしまいました。神に向かう人間の存在がゆがんでしまった。そして、そのとき、互いに最もふさわしい助け手として、愛し合い、支え合うパートナーとして造られた男と女、人間同士の関係もまた、ゆがんでしまったのです。神の大いなる祝福のうちに、よき交わりの中に造られた人間同士が、互いに争い合い、いがみ合い、やがては殺し合うようになってしまった。そこに罪の悲惨があります。そういう私たち人間の悲惨な歴史のただ中に、神が人としてお生まれになったのです。まことに神である方が、まことに人となられた。神の言は、肉を取られたのです。

 ヨハネが、クリスマスの出来事を、言の受肉として描くとき、「肉」というのは、単純に人間性を表しているだけではありません。何の色付けもない「肉体」という意味の用語が用いられているわけではないのです。むしろ、ここで言われる「肉」とは、神に逆らう肉、交わりを損なう肉です。霊に逆らう、生まれながらの罪に満ちた人間を表します。その肉が、神によって取られたのです。そこにすでに救いがあります。この受肉した言は、私たちの間に宿られました。罪に傷つき、闇に閉ざされたこの世界に宿られました。そして、神に背いた人間の罪のゆえに、傷つけられ、あなどられ、殺されたのです。受肉の出来事はまた、御子イエスの受難の歴史の始まりでもありました。神さまの独り子が、この地上においでになり、しかも、罪深い人間の肉を取られたのは、御子の肉において、罪が罪として裁かれ、滅ぼされるためだったのです。本来ならば、神によって裁かれ、滅ぼされなければならないのは、私たちでした。神に造られた者でありながら、造り主に背を向け、自らが造られた者であることさえ忘れてしまっていた私たち。造り主である神を侮り、神などいないとうそぶいて、自らの罪の重みで転がり落ちていくしかなかった私たち。神よりも隣人よりも自分のことを優先し、自分が快適な生活を追い求めていくその反対側で、犠牲になり傷ついている世界と隣人たちのことに気づきさえしていなかった私たち。罪が生み出す憎しみと争いの中で、世界全体をさえ滅ぼすほどの破壊力を抱え込んでしまった私たち。神のもとから迷い出して、隣人との関係もずたずたになり、世界の中で孤立し、自分が何ものであるのか、何のために生きているのかも分からずに、ただ流されていくしかなくなっていた私たち。神はそういう私たちをお見捨てにならず、私たちを憐れみ、私たちを救い出すために、私たちの罪をすべて御子の肉に負わせて、十字架の上で滅ぼし尽くされたのです。神さまの独り子は、ご自身には罪がなかったにもかかわらず、私たちすべての罪を代わって背負うほどに、私たちと同じ者になられた。それが、クリスマスの出来事でした。

 ヨハネは証しして言いました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。まことの恵みに満たされた栄光を見つめながら、ヨハネはさらに語ります。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」。御子イエスがこの地上に生まれてくださったことによって、私たちは、満ちあふれる豊かな恵みを与えられました。御子イエスは、私たちのところにまで来てくださり、慰めに満ちた言葉を語ってくださいました。私たちはこの方の言葉を通して、真実に、神の慰めに触れることができるのです。そして、この方を通して、父なる神を仰ぎ見ることができる。ただ一人、生まれながらに神の独り子である方が、私たちと一つに結ばれてくださったことによって、私たちの罪がこの方によって担われただけではありません。御子イエスの命によって、私たちも、神の子としての祝福にあずかる者とされました。主イエスの父である神を、私たちもまた、父と呼ぶことができるようになったのです。世界と私たち人間の造り主である方を、父と呼ぶことによって、私たちは、自分が何ものであるか、ということを、深く味わい知る者とされたのです。この世界の中で、孤立し、流されていく根無し草ではなくて、私たちの存在の根拠は、造り主である神によって保証され、支えられている。この恵みを知ることによって、私たちは、神さまのまなざしの中にある自分自身の存在を、見つめ直すことができるようになったのです。

 神さまが本当に私たち人間をどのように見ておられるか、それを教えるために、主イエス・キリストは、私たちと同じ人間の一人として、この世に来られたと言っても良いのだと思います。私たちは、この御子キリストにおいて、私たちに対する神さまの御心を知るのです。そして、神さまの御心を知るとき、初めて、私たちは、ほんとうに、私たちがこの地上に生きることの意味を受けとめることができるようになるのだと思います。たとえて見れば、私たちは、気が付いたら舞台の上にいて、自分の人生というドラマを演じるように求められていたのです。しかし、それがまさに一つのドラマであり、私たちをこの世界という舞台の上に置いてくださった方がある、ということにも気づかずに、目に見える世界の中だけで、とまどいながら生きてきました。しかし、永遠の言であり、創造の言である独り子が、肉を取って、私たちの間に宿られたことによって、私たちは、この方を通して、永遠へと思いを挙げ、造り主である神へと心を向けることを教えられました。神と人間のドラマは、神の御心によって導かれています。いわば、この壮大なドラマの脚本を書き、舞台の監督を演じておられるのは、神なのです。その脚本家や舞台監督の考えやねらいが分からなければ、本当にふさわしく演じることはできないのではないでしょうか。そういう私たちに、監督である神の御心を知らせるために、律法が与えられ、預言者が遣わされました。そして、遂には、神ご自身が、この舞台の上に降り立たれた。キリストは、この舞台の向こう側から、私たちのところに来てくださいました。キリストこそは、舞台の監督であり、また演技の指導者、いや、実演者です。その意味で、まさに私たちのお手本です。しかし、それだけではありません。長年の罪に縛られた不自由さのために、歪んでしまい、ぎこちない動きしかできない私たちの手を取り、脚を取って教えてくださるトレーナーでもあります。私たちの抱えている重荷をすべて取り去り、関節の固さや、コリをほぐし、ゆがみを取り去って、この舞台の上で、私たちが、神の子として、生き生きと自由に振舞えるようにしてくださったのです。このキリストを通して、私たちに対する神さまの究極的な愛の御心を信じるとき、私たちは、絶望することなく、この世界の不条理や、自分の罪と戦っていくことができるのではないでしょうか。クリスマスは、まことに神である方が、まことに人として私たちのうちに宿ってくださったとき。私たちに対する神さまの御心が、はっきりと示されたときなのです。

 クリスマスのとき、神の御子である主イエス・キリストが、私たちと同じ姿をとって、私たちのうちに宿ってくださいました。私たちが御子を信じ、このお方と一つに結ばれる洗礼を受けるならば、私たちもまた、御子と同じ姿に変えられることを信じ望むことができます。終わりの日、御子が神の独り子として栄光をまとって、再びこの地上に来られるとき、私たちは御子と同じ栄光の姿へと変えられるのです。その望みを確かなものとするために、聖餐の恵みが備えられています。神の独り子である方が、私たちのために開いてくださった救いの道に進み、備えられた命の糧にあずかって、ともどもに、信仰のまなざし、霊の目をもって、クリスマスの栄光を仰ぎ見ることができますように。皆さまの上に、クリスマスの祝福と恵みが豊かに宿ることを願い祈ります。

聖学院教会  東野尚志牧師
(ひがしの ひさし)





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