2019年1月のみことば

神を知り、自分を知る

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
 ルカによる福音書23章32節~34節
                  (ルカによる福音書23章32~34節)

 
 2017年は宗教改革500年記念の年でした。この宗教改革の起点となった人は、有名なマルチン・ルターです。彼は古くなった道をガアッと掻き起こす、まるでブルトーザーのような働きをしました。続いて現れたジャン・カルヴァンは、その道を綺麗にローラーで整えた人です。このジャン・カルヴァンが書いた「キリスト教綱要」は、私達に聖書の読み方を教えてくれる大切な本です。

 その本の一番最初に、「神認識と自己認識は結び合った事柄である」と書いてあります。これは「神が分かると、自分が分かる」と言うことです。これを言い換えれば、神が分からなくなると、私達人間は自分達の姿が分らなくなると言うことです。実際、今日、21世紀を生きる私たちは、自分達は全てのことを知ることが出来たと思っています。かなり傲慢な気持ちで生きており、神の前に頭を下げる必要もなくなったと考えています。しかしそのため、残念ながら自分達の姿がまったく見えなくなってしまっているのです。これが大問題です。

 この時、私達はもう一度、主イエス・キリストの十字架を見上げなければなりません。何故ならそこで、神と人間とが激しくぶつかり合っているからです。まさに正面衝突です。この歴史上の具体的な事件、この場面から、神が分かり、また私達人間の姿が見えて来ます。この十字架から目を背け、神と人間とを宙に浮いたこととして論じるものは、神も人間も知ることが出来ません。そこにどんなに熱心な議論があったとしても、それらは単なる観念の遊びに終わってしまいます。やはり、「この人を見よ」です。特に、主イエスが十字架につけられ、殺されて行く経過が、私たちに大切な事を教えてくれています。

 まず、具体的に主イエス・キリストを十字架に付け、殺したのはローマの兵士達です。しかし、その命令を下したの総督のピラトです。この総督ピラトに決断を促したのはあの群衆の言葉の暴力でした。ピラトはこの群集の言葉の暴力に負けたのです。しかし、この群衆達を扇動したのは、当時の政治宗教の指導者達でした。このように次々と責任者を追って行くと、主イエス・キリストを十字架につけて殺した責任者は、この政治宗教の指導者達であったことが分かります。

 彼らは神の掟を重んじて生きていた人々です。この神の掟という絶対的な「ものさし」でもって、主イエスを十字架に追いやり、また十字架に掛けて殺したのです。彼らは言います。「この男は、自らを神の子と自称した、神からの呪いを受けるべき人間だ」と。そして主イエスを十字架につけて殺しました。この十字架は「この男は神の子でも、メシア(救い主)でもない。神からのろわれた者」であるということを人々にはっきりと示すしるしであったのです。

 彼らは皆、自らを賢い人間と自負しておりました。彼らは、神に代わって良き事をしたと満足したのです。旧約聖書の詩篇14編の1節に「(口語訳)愚かな者は心のうちに『神はない』」と言う」という言葉があります。ここで愚かな者と言われているのは、実は自分は賢いと思っている人達のことです。自分が賢いと思っている人間が、自分の姿が少しも見えなくなるのです。またこのように自分達を正しいと受け止めている人達が、なかなか神の前に謙遜になれないのです。しかし、ここで人間を攻めることは愚かなことです。信仰を持っていない家族たちを攻めてもいけません。うっかりすると、私達も、この指導者達と同じ過ちを犯す人間になってしまいます。

 私達はもう一度、十字架につけられた主イエスの声を聞かなければなりません。そこで発せられた主イエスのお言葉を、自分に向けて語られたお言葉として、静かに聞かねばなりません。
 主イエスは言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。この言葉について、ある人が言っています。「人類の歴史の中で、人間が語った言葉としては、これ以上に美しい言葉がない」と。それは、自分を十字架につけて殺そうとする者達について、神にゆるしを祈る祈りの言葉であるからです。神の義が極まって、神の子が犠牲を負い、このようにして私達人間の罪が赦されたのです。

 私達の本当の姿は、主イエス・キリストから一番良く見えています。「自分が何をしているのか知らないのです」。そうです、ここから自分が神となり、神の前に頑固に頭をさげないばかりか、神の子を殺し、自分を生かそうとする人間の恐ろしい姿が見えて来ます。私達もまた神を神とせず、また人を殺しかねない人間であるのです。

 昔見た演劇で、ヒットラーの時代、ユダヤ人を毒ガス室で次々と殺していた人が言いました。「もし、彼らの信じる神が本当にいるのだったら、この現状を見て、怒り、自分達を滅ぼすに違いない。しかし、こんなことをしている自分の上に、なにも悪い事が降りかかってこない。だから、神などいないのだ」と。神などいないと言う人間は、自分を神とし、傲慢になり、人を殺しても平気である恐ろしい自分の姿は見えず、自分を正当化してしまうのです。実は、彼らの姿の中に私達の姿があります。罪に縛られ、そこから日々抜け出せない私達の姿があります。

 この時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という、この神の愛の赦しの「まなざし」の光に照らされ、神の絶大な赦しに触れて、私達は徹底的に裁かれ、初めて私達は神の前に頭を下げる者となります。また、主イエスに赦されたことに支えられ、自分を赦し、また人を赦す者へと導かれるのです。神を知る者は、自分の姿を知る者となり、神を知る者は、その愛を知り、その愛に応えて生きる、正気の人間となることが出来るのです。
東松山教会 野村忠規牧師
(のむら ただのり)




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