2019年3月のみことば

幸いなのは

 いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
                        (詩編1編)

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
                        (ルカによる福音書11章27-28節)


 「なんと幸いなことでしょう」。ある女が群衆の中から声高らかに言いました。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と。この女の人は、直前にイエスさまがなさった業を知ったのでしょう。イエスさまのお話も聞いていました。イエスさまのなさった業とは、悪霊を追い出して、口のきけない人の口をきけるようにしたことです。イエスさまのお話とは、悪霊が出て行った後の人の状態が、どのようなものであるかということです。

 この女の人は、褒めたのです。素晴らしい業、素晴らしい話をする人のことを褒めるのですが、直接イエスさまを褒めるのではなく、イエスさまの母を褒めました。オリエントで人を褒める時、その本人よりその親を褒めるのが、一層その度合いが増すそうです。日本でもそうですね。子が素晴らしい功績を為した時、その親を褒めたりします。「このような子を育てた親は、お母さんはどんなに素晴らしい方でしょう」など…。逆もあります。悪いことをした子に対して、「親の顔を見てみたい」ということもあります…。ここでは、子が素晴らしいことをした時に、その母親を褒めています。子を宿す胎、子が吸う乳房について、「なんと幸いなことでしょう」と褒めています。胎と乳房は聖書的な表現です。創世記49章25節には、「乳房と胎の祝福をもって」という表現があります。今日の御言葉の女の人は、イエスさまに向かって、「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は、なんと幸いなことか」と褒めました。

 褒められたイエスさまは、どうしたでしょうか。これを聞いたイエスさまは、喜ぶどころか強く否定します。「むしろ」とありますが、これは強い否定を意味する言葉です。「むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃいました。女の人は、素晴らしい業をするイエスさまを宿し、乳を与えたその母が、母親の中でも最も恵まれて幸いな人だと思いました。だから、声高らかに、そう褒めたのです。けれどもイエスさまは、「そのような人が幸いなのではない。幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人なのだ」とおっしゃいました。

 「幸い」という言葉は、新約聖書の中でルカによる福音書が15回と一番たくさん使っている言葉です。次はマタイが13回です。最初は、ルカによる福音書1章45節です。クリスマスのお話です。マリアは天使から受胎告知を受けました。マリアは戸惑い驚き、考え込みましたが、天使の言葉を聞くうちに神の言葉を受け入れて、「お言葉通りこの身になりますように」とすべてを神に委ねました。そして、エリサベトのもとを訪問しました。

 1章41節からお読みいたします。「41節、マリアの挨拶をエリサベトが聞いた時、その胎内の子が躍った。エリサベトは聖霊に満たされて、42節、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43節、わたしの主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44節、あなたの挨拶のお声を私が耳にした時、胎内の子は喜んで踊りました。45節、主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とあります。

 この時、イエスの母となるマリアは、エリサベトから「なんと幸いでしょう」と言われました。エリサベトは、マリアが主の母であることを知っています。エリサベトはマリアを褒めましたが、それは主の母だからではありません。マリアが主のおっしゃったことは必ず実現すると信じた人であるから、その方はなんと幸いでしょう!と言ったのです。幸いとされるのは、主のおっしゃったことは必ず実現すると信じた人だということです。そして、今日の11章でイエスさまは、「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人だ」とおっしゃいました。

 幸いなこと。旧約聖書の詩編になんと書いてあるか見てみましょう。1篇の冒頭に「いかに幸いなことか」とあります。幸いなこととはどんなことかと、この詩の作者はうたいます。1節では、神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者…がしないことが幸いだと、否定形で書かれています。神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者、それらは皆、神の御心に添わない罪人のことを言っ‎ています。何をしないことが幸いなのでしょうか。彼らと「歩まない、とどまらない、座らない。」ことです。

 幸いな人とは、悪から遠ざかる人のことを言っています。この三つの言葉は、人がだんだんと悪の方へ、神から離れる罪の方へ染まっていくさまを述べています。幸いでない人=神に逆らう人は、まず悪いはかりごとに歩み出します。歩いているうちは、まだ方向転換できます。でも、悪い方へ歩いている足は、その悪の道で立ち止まってしまい、‎ついには座り込んでしまうといいます。そして、その人は滅びに至ると書いています。‎

 そうならないように、悪から遠ざかる人が幸いなのですが、遠ざかるだけではすぐに、悪の方が近づいてきます。だから、2節では否定形で言うのではなく、積極的に幸いな人とはどのような人であるかを言っています。2節には、幸いな人とは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあります。このことは、今日のルカ福音書11章27節の直前にあるイエスさまのお話と似ています。ちょっと見てみます。11章24節からですが、汚れた霊の話です。汚れた霊が人から出て行って、しばらく砂漠をうろついても、さっき出て行った人の心が空っぽであれば、汚れた霊はすぐにまた戻ってこれます。一度出て行っても、その人の心が空っぽであれば、すぐにまた、悪霊は入り込んで来てしまうのです。そして、人を神に逆らう方へと導くのです。

 幸いな人というのは、悪から離れるだけではありません。悪から離れればよい、悪いことをしなければ良いというだけではないのです。その人の心が空っぽだったら、すぐに悪に入り込まれてしまいます。空っぽにならないように何かを入れなければなりません。どうすれば良いのでしょう。主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむことです。口ずさむとは、暗記しなさいと言っているのではないのです。思い巡らすという言葉です。聖書を読んで、考え、主の教えを思い巡らしていることです。悪いことをしないだけでは、またすぐに悪い道へ引き戻されます。悪いことだけではありません。悪い考え、不安や悩みもそうです。神さまは「恐れるな」と私たちに言います。恐れてしまうことも、‎神さまを信頼しないことだからです。不安や恐れの気持ちから逃れさせてくださるのも、神さまです。その神さまの御言葉を思い巡らすのです。主の教えを愛し、口ずさむ人は幸いだと聖書は言います。‎
 
 幸いなのは、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人。今日、イエスさまもそうおっしゃいました。「むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」と。「守る」とは、見張る、保管するという意味の言葉です。つまり、神の言葉を聞いて、その言葉をしっかりと心の内に蓄え、それに聞き従っていくことです。だから、そうしましょう!・・・と言いたいところですが、人は順風満帆な時や、問題がない時には、素直にそうできるでしょう。けれども、人はいつでもどんな時でも、主の教え、御言葉を聞いて守ることができるでしょうか。

 この世の中、地上では、いつ何が起こるか、人には全く分かりません。事故、災害、病気、予想できない不幸なことが起こります。仕事を失うこともあるでしょう。生きる糧をどのように得ればよいのか分からなくなることもあるかもしれません。そのような時、人は、我を失い、途方に暮れ、何をすればよいのか、どう生きて良いのか分からなくなります。そのようなことは、旧約の時代にもイエスさまの時代にも、そして今に至っても、歴史を見ればわかりますが、そのようなことは、いつもどこでも、誰にでも起こりえます。

 そのような時、「ああ、生まれてこなければよかった…」とか、「子どもなど産まなければよかった…」、「もう死んでしまいたい」などと言いたくなるかもしれません。全てを投げ出したくなるかもしれません。自分は不幸のどん底にいる…そのように人に思わせ、言わせてしまう力が、世の中に、地上全体に、一人一人の内に、働いています。人が生きる方向ではなくて、諦めへ、絶望へ、死へと向かわせてしまう力があります。それが死の力、闇の力、悪の力なのでしょう。

 イエスさまは、ルカによる福音書23章28,29節で、やがてエルサレムが滅ぼされる時のことを話します。「むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け。人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳をのませたことのない乳房は幸いだ』という日が来る」とおっしゃいます。今日の聖書11章で女の人が言う言葉と正反対です。人は、そのように言うのです。もう絶望だ、不幸のどん底だと思って、そう言いたくなるのです。イエスさまは、人間がそのように絶望へ向かってしまうものであることを、ちゃんとご存知です。人は絶望してしまう、下を向いてしまう者であるからこそ、イエスさまは、絶望から希望へと向かわせるものがあることを、人に教えてくださいます。イエスさまは、人が希望へ向かえるように、上を見上げることができるように、教え導いてくださるのです。

 私は今、このようにお話していますが、実際に、災いが身に降りかかったら、自分自身にとんでもないことが起こったら、やはりうろたえ、絶望に近い思いを抱くかもしれません。思考がストップし、なんのやる気も出なくなるかもしれません。でもイエスさまは、人間とはそのようなものであることをご存知なのです。地上の出来事に一喜一憂し、振り回される人間ですが、だからこそ、地上のものだけではなくて、神が与えてくださるものに目を向け、心を向け、そして求め続けることが大切だと、教えてくださるのです。神が与えてくださるものとは、御子キリスト、そして神の教え、御言葉です。御言葉には真に生きる命が満ちています。幸いに生きる教えが満ちています。

 神は旧約の時代に、人を生かすための律法を与えてくださいました。今日の詩編1篇の主の教えの教えは、ノモスという言葉です。律法と訳されます。神はもともと、人間を神に似たものとして造り、人に神の命の息を吹き入れ、神と人とが良い関係で過ごしていけるようにしてくださいました。ただ一つの戒めを守る以外は、自由を与えてくれました。けれども、人が神に逆らいました。神に逆らったことを、蛇のせいにし、あげくの果ては、アダムとエバの間で、罪のなすり合いが起きました。人は神に対して背き、また人に対しても信頼関係を崩していきました。

 神は人を、神を愛し他者を愛するものとして造られたのに、愛とは正反対の殺人まで起こします。人は滅びへと向かい始めました。神は人に対して、滅びではなく繁栄に至る約束をしてくださいました。契約を立ててくださいました。やがて律法が与えられました。人は、主の教えを守り、聴き従おうとしてきました。でも、人はなかなかその教えを守り切れるものではありません。守れなければ、人は滅びに至ります。神は、なんとか人間を救おうとなさいます。

 そこで神は、教えだけではなく、地上にイエスさまを遣わしてくださいました。人は律法を守れません。限界があります。律法は、人が人を裁くことにつながることをイエスさまはご存知でした。イエスさまは、律法を廃止するためではなく、律法を完成するために来られたとご自分でおっしゃいました。律法によって人を裁き、罰を与えるのではなく、イエスさまが律法を守れないでいる者の罪を背負って、代わりに十字架にかかってくださるのです。

 ルカによる福音書19章10節以下にありますが、イエスさまは失われた者=神を知らない者、神と良い関係を築けないでいる者、神に逆らっている者、…そのように神から失われた者を見つけ出し、救うために、地上に来られました。失われた者を捜し出し、神の国へ招き入れようとするために、地上に来られました。神の国をわたしたちのものにしようとなさるのです。神の国で生きることが人の幸いだからです。同6章20節にあります。

 神は、イエスさまを遣わし、そして神の国が来ることを示してくださいました。同17章20節でイエスさまはおっしゃいます。「神の国は、ここにある、あそこにあると言えるものではなくて、実に、あなたがたの間にあるのだ」と。ルカは、神の国での食事や宴会の譬話をよくします。大宴会の譬話の後では、客の一人はこう言います。同14章15節「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と。聖餐は、神の国の食事の先取りです。神は、ご自分が造った人間が、幸いに生きることを望んでおられます。

 人間は本来無力です。無力な者として神は人を造られました。それは人が神に頼り、人に頼りながら生きて行くためです。そのためには、神の教えを聞かなければなりません。そうして、神と共に、人と共に生きていく。そこに人間本来の生き方があり、幸いがあります。私たち自身だって、不幸に生きるより、幸いに生きたいものです。幸いに生きる場所は、神の国です。神の国、私たちの間にあるもの、それは教会です。神の国は、すでにイエスさまによってもたらされました。主イエスさまを頭とし、主の体である教会。私たちが枝であり部分である、その教会が、今、私たちの間にあります。ここにあります。

 教会に生きるためには、私たち一人一人が、教会を建て上げていくことが大切です。毎週の礼拝で、御言葉により再び新しくされて、生きる命をいただきます。神を愛し、主イエスさまを信じ、心に招き入れ、御言葉を聞きます。教会は、神の国は、主イエスさまが王なのです。主のご支配の中で、神を愛し、隣人を愛することに、人生の幸いがあります。教会で、礼拝で、王である主イエスさまの御言葉に聴き、そのご支配の中でこの人生を生きることに、一人一人の幸いがあります。

 礼拝では、時に聖餐に与ります。神の国で食事をする者は、幸いなのです。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた者は、幸いなのです。神の言葉を聞き、それを守る者は、幸いなのです。一人で御言葉を聞いて守ることは時に難しいです。だからこそ、互いに支え合う教会があり、主は聖霊を注いでくださいました。聖霊の導きを頼り、主に委ねて、御言葉に聴き、守り、この先も、ご一緒に幸いな道のりを歩んでいきましょう。道のりがそれることもあるかもしれません。御言葉に聴いて、主に修正していただきながら、主に向かって幸いな道を歩んでまいりましょう。

所沢武蔵野教会 渡邊典子伝道師
(わたなべ のりこ)




今月のみことば              H O M E