2019年5月のみことば

野の花のように

 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
               (マタイによる福音書6章30節)


 私が狭山教会に赴任した最初の日は、イースターでした。駅を降りて、最後の曲がり角を曲がろうとすると、紫色の一本のスミレに、目が留まりました。アスファルトの継ぎ目のわずかな隙間から、可愛らしい顔を覗かせていました。
一番最初に私を出迎えてくれたのは、この小さな紫色のスミレでした。

【1】
 私は、神学校の四年間の学びを終えたばかりでした。入学当時の学生証が手元にあります。その写真は髪の毛が黒くて、たくさんあります。年を重ねるということは失うことだと、実感しています。
それでは、年を重ねると希望も失ってしまうのでしょうか。旧約聖書には、年老いた夫婦の希望の物語があります。それは、アブラハムが百歳、妻のサラが90歳のときのことでした。二人の間には、子どもがいませんでした。
 そこへ、神さまと二人の天使がやって来て、来年の今頃に子どもを授かると告げました。果たして、その言葉の通り、子どもが生まれました。サラは、喜んで言いました。

神は、私に「笑い」を、お与えになった。

その子に付けた名前はイサク。「笑い」という意味です。

【2】
 人は、死ぬというその日まで笑います。
 私は、そのことをホスピスのボランティアで学びました。何かしら、言葉をかけてあげたいと思って始めたのですが、それは、まったくの思い上がりでした。反対に、死んでいった人たちから、たくさんのことを教えて頂きました。
 あるとき、90歳近いご高齢のおばあさんが、ボランティアの助けを借りて、見事に爪を飾りました。ネール・アートです。
 今度孫が来たら、このネールを見せてびっくりさせよう。そうだ、来月のお月見の夜に見せよう。おばあさんは、心待ちにその日を思い描いていました。私は、その笑顔を忘れることができません。
 しかし、待ち望んだお月見の夜が、おばあさんに訪れることはありませんでした。
 私は、あの、けなげな紫色のスミレを、思い浮かべます。明日をも知れぬ今日のこの一日を、この上なく美しく咲こうとする野の花の姿です。主イエスは、こうおっしゃいます。

今日は生えていて、
明日は、燃やされてしまう野の草でさえ、
神はこのように装って下さる。

【3】
 私がホスピスで学んだことは、最後まで、あしたを楽しみに待ち望む生き方でした。私には、その生き方が神の国を待ち望む信仰と、どこかでつながっているように思えてなりませんでした。今、ここにある今日という与えられた時間、たとえ、そこがホスピスの一室であろうと、そこには希望があったのです。
 なぜでしょうか。
 私たちは、自分の力で生きているわけではありません。それ以前に神によって創られ、生かされている「いのち」です。空の鳥も野の花も、同じ生かされてある「いのち」です。なるほど、確かに、今日の一日は、神の国から程遠いように見えます。何でこんな境遇に生まれついたのか、こんなつらい目にあわなければいけないのか。
 しかし、主イエスは、こうおっしゃっているのではないか。その「いのち」のかけがえのなさに早く気づきなさいと。
 神の国が、もう、すぐそこの角までやって来ている。今までの苦労は過ぎ去って、世界はもう間もなく「永遠のいのち」に覆われる。いや、すでに今この瞬間にも、「永遠のいのち」が私たちの世界を覆いはじめている。もう、神の国は、始まっている。主イエスは、そのことを、目の前に咲いている野の花の美しさに譬えました。主イエスの目には、すべてのいのちが、「永遠のいのち」につながるものとして、映っていました。

【4】
 その主イエスが、十字架を背負いました。見渡せば、いたる所に重荷を背負う人々がいます。アスファルトの裂け目で咲く、紫色のスミレの姿は、生きることの凄まじさそのものです。いくら一生懸命咲いていても、踏みつぶされてしまえばそれまでです。
 そのスミレが、道路の割れ目で可憐な花を咲かせています。まるで「ここが一番好き」と言わんばかりに、命を輝かせています。
 今、この時を生きるすべての「いのち」は、来るべき神の国からの、希望の光に照らされています。

 天の神さま、あなたは「いのち」を与えて下さいました。この「いのち」が地上の最後の日を迎えるときまで、御国の希望によって生きることができますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

狭山教会 大久保一秋伝道師
(おおくぼ かずあき)





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