2019年6月のみことば |
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる (箴言16章9節) |
昨年2018の夏、私は30数年ぶりに母教会・日本基督教団玉川教会(東京都町田市)の仲間とともに、福島県会津地区の諸教会を訪問しました。![]() これだけ一緒にいれば、性格も分かろうというものです。私は大学生時代3、4回参加しました。日本聖書神学校入学以後は仕事のため参加できませんでした。 当時のメンバーは、5人から10人。その時によって顔ぶれ、訪問先は変わります。 会津高田教会をベースキャンプにし、礼拝堂に寝袋で寝ます、男女一緒。食事は自炊、とは言っても、みんな女の子が作ってくれた、改めてどうもありがとう。 会津坂下(ばんげ)会津本郷、喜多方、猪苗代、山都、会津若松、といったところが中心。 あの頃のメンバーで会津に行こうよ、という話は数年前からあり、都合のつくメンバー、女性4、男性2で。実は私の夏期休暇に合わせてもらったのですが。男性は二人とも牧師。 鉄道好きの私は、前日浦和から各駅停車で郡山に行き、一泊し翌日、新幹線でやってきたメンバーと合流。当時かわいかった女子高生も、はや50歳。郡山からはレンタカーを借りて移動。当時は町田からワゴン車で行っていました。 レンタカー快適、昔クーラーなんかついていなかったよね、この辺、高速道路なかったよねと、昔話に花が咲く。 見えてきました、猪苗代湖。昔はなかった道の駅に寄り、最初の訪問喜多方教会へ。 あれ、こんなに、ちっちゃかったっけ?周りの様子は全く覚えていない。今、礼拝出席9名。 次は会津坂下教会。教会員が待っていてくれた、しかもあの時にいた教会員。会堂は新しくなっていた。私はキャラバンで、この教会の礼拝中に召命を受けた、当時20歳。私が生まれる前に亡くなった姉は女子高生の時に9歳上の兄は21歳で、私が中学1年の時にいづれも事故で亡くなった。 当時会津に来て、初めて無牧の教会などというものがあることを知った。衝撃だった。礼拝中、もし私が21歳より長く生きられるなら、命を神様に返すつもりで牧師になりたい、そのことで一つでも無牧の教会がなくなるなら、一人でも洗礼を受ける人がいれば、私の人生は十分だろうと。学生時代の思いと向き合い、4年の夏に就職活動はしないという決断と、ともに神学校受験を決めた。 ![]() 思い出深い、坂下教会。礼拝6名、高橋真人牧師が、会津本郷教会と兼任。ひとりあたりの会堂献金は一体? そして、今宵の宿へ。私の強い希望により温泉旅館。もう、寝袋では寝ません。夜とっても盛り上がり、就寝。 翌日は、山都教会へ。やはり当時の信徒の方が待っていてくれる。ここも新会堂になっていた。牧師は、神学校の後輩の八木原敬一牧師が、会津高田教会と兼任。礼拝8名。 ここの会堂献金も一体? そして懐かしの会津高田教会。全然途中の道を覚えていない。メンバー曰く、あの頃疲れていて、移動は寝ていてほとんど覚えていない。確かにね。 到着、八木原牧師に迎えていただく。泊るのは、隣の旧宣教師館。ベッドです 当時あった幼稚園は、廃園になっていた。 ここでのプログラムは、夏の幼稚園のお楽しみ会での奉仕、そして私が死ぬほど嫌で、恥ずかしかったのは、フォークダンス。 お母さんと躍らなければいけません、男子大学生にとって、当時の30代のお母さんたちと躍るのは・・・。 礼拝堂は二階だった、全然覚えていなかった、中に入ると確かにこんな感じだったな、と記憶がよみがえる。そうか、この教会の礼拝堂で寝たというのは記憶違いで、あそこは園舎だったんだと気づく。礼拝8名 夜は、高橋、八木原牧師と、地域の教会みんが集まってくれて、しゅにある(あえてひらがな・笑)またも盛り上がる。 ![]() 胸が痛くなった、福島他の原発を使っていたのは、首都圏にいる私、私も加害者なのだと。 翌日は最後の訪問地、若松栄町教会。片岡謁也牧師が迎えてくださる。礼拝25名、会津若松駅から歩ける。会津若松、すっかり観光地化されていてびっくり。野口英雄青春ロードだか、道というものまであった。 私は若松駅から、磐越西線で郡山にむかうので、(鉄道好きです)郡山までレンタカーでいき、新幹線チームとは、ここでお別れ。 昔も今回も会津は、色々なこと私に教えてくれる。地方教会の置かれている厳しさ、でも、信徒が教会、キリストの体を支えていた。 そして所属教会は違うけど、主にあって出会った信仰の仲間に感謝。 |
浦和東教会 永井二三男牧師 (ながい ふみお) |
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