2019年11月のみことば

パンとぶどうの杯を食する者に

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
             (マルコによる福音書14章22―24節)

 教会の礼拝で、パンとぶどうの杯を食します。これは「聖餐」(せいさん)と言われ、ダビンチの絵でよく知られた「最後の晩餐」でなされたものです。マルコによる福音書14章は、この最後の晩餐でイエス・キリストが語った言葉です。
 「聖餐」は洗礼を受けたクリスチャンがいただきます。一方で、クリスチャンでない人は食べません。まわりの方々が食べている中で、自分だけ食べないのは寂しい気もしますし、いやな気持ちになることもあると聞きます。その意味で教会は、閉鎖的なところなのでしょうか。
そこで最後の晩餐で語られたイエス・キリストの言葉を通して、聖餐の祝福について考えてみることにいたしましょう。

① パンとぶどうの杯を食する
 マルコによる福音書は聖餐について「イエスは……弟子たちに与えて言われた」と記しています。パンとぶどうの杯は、イエスの弟子、つまりクリスチャンがいただきます。しかし実は、教会で最初からパンとぶどうの杯を食べていた人は誰もいません。親がクリスチャンだったから、その子もクリスチャンと言うわけではありません。クリスチャンは家族の中で自分一人だけと言う人も少なくないのです。
 つまりあなたと同じように、人生のどこかで初めて礼拝に出席し、しかしパンとぶどうの杯を食べなかった時があります。そして洗礼を受けて食べるようになったのです。洗礼を受けるとは、イエスの弟子になり、パンとぶどうの杯をいただく者になると言うことです。それはイエスの呼びかけから始まります。
 
② 食べてはいけないのでしょうか
 イエス・キリストは今日も「取りなさい」とあなたを招いています。礼拝に出席していると、クリスチャンや牧師から、洗礼を受けませんかと声をかけられることがあります。それは「わたしたちと一緒に、パンとぶどうの杯を食べる者になりませんか」と呼びかけているのです。しかし様々な理由で、例えば「我が家は仏教だからだめです」と、お断りになる方もたくさんおられます。これは自分のほうから「わたしは取りません、食べません」と応えていることになるのではないでしょうか。
 そうであるならば「食べてはいけません」とか、「洗礼を受けなくても食べられます」と語るわけにはいきません。教会は、礼拝に出席するすべての方が、一日も早く洗礼を受けて聖餐を食する者になっていただきたいと祈り願っています。

③ 新しい契約、福音を告げる聖餐
 主イエスはぶどうの杯を「契約の血」と言われました。新約聖書の「約」とは、この契約のことです。例えば、私たちはホテルに泊まるとき「予約」をします。しかし代金(犠牲)を払わなければ、予約を完了することが出来ません。
 神を信じることが出来ない私たちは、神との関係が壊れています。聖書ではそれを罪と言い、その意味で私たちはすべて罪人です。この罪ある人間の修行や努力では神と契約を結ぶことが出来ません。そのような「多くの人のため」に、神の側から手を差し伸べ、イエス・キリストの十字架の犠牲、そこで流された血潮と復活を通して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と関係回復の契約が告げられています。そこに罪の赦し、喜びの知らせ(福音)があるのです。

 こうしてイエス・キリストを信じる者は、誰でも罪が赦されます。そのしるしが洗礼です。そしてパンとぶどうの杯をいただく毎に、私たちはこの契約を想い起し、神に感謝するのです。また聖餐を通して、すべての人に開かれた福音を味わうことが出来ます。あなたも洗礼を受け、パンとぶどうの杯を食する者になりませんか。

東京聖書学校吉川教会 原田彰久牧師
(はらだ あきひさ)





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