2019年12月のみことば |
いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。 (詩編第一編1~2節) |
① 幸せになるために クリスマスに向けての飾り付けが華やかです。なんとなく気分も楽しくなります。このような楽しい気分をよく『今の気分はハッピーだ』と言ったりします。『今は幸せ』という意味ですね! 私たちは気分が高揚していたり、楽しいことに熱中していたりすると《幸せ》を感じます。私も同じです。ただ、なかなかそのような気持ち良い時間は長続きしません。その時間が去るといつもの日常へと戻ります。そこでは泣いたり、怒ったり、時には落ち込んでしまうことがあります。だから、人は一時的でも気分が高揚する時や場所を求めてしまうのかもしれません。芸能界のタレントさんが変な薬に手を出してしまうのもそのような高揚感を求めてのことでしょうか。 最初に挙げました言葉は、聖書の『詩編』第一編の冒頭の言葉です。『詩編』には、多くの人に愛されて、読み継がれて来た賛美の歌や祈りがまとめられて納められています。その最初の第一編は150篇もある詩編全体の序論になっているとよく言われます。この説に従えば、この冒頭の言葉である「いかに幸いなことか」(原文ではアシュレー ハイシュであり、意味は「幸せな人は~である」)から始まるということは、詩編全体が本当に幸せな人とはどういう人なのかというテーマをめぐって書かれていると読めます。また、更に広げて見れば、実はイエス様がなされた、有名な説教集である『山上の説教』(=マタイによる福音書5~7章)の冒頭も「幸いな人は、心の貧しい人々である」と教え始められておられ、詩編の思いと通じておられるように思います。 「幸せな人とはどういう人か」というテーマは聖書全体を貫いていると言っても過言ではないでしょう。私たち人間が何のために生きるのか、それは《幸せになるため》であると、そして本当の《幸せ》とは何であるのか、どういう人が《幸せ者》なのかを示そうとして下さっていると言い得ます。まさに、それこそが聖書の最大のテーマであるのです。 ② 幸せになる条件 この詩編第一編が言うところの《幸せ者》とは「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」であると言われています。 面白いと思います。普通なら、人間が何を目標に生きて行けばよいかとか、何を求めれば幸せになるかとか、そのような生きる目的や価値を教えようとするところでしょう。しかし、全くそういうことについては語っていません。この詩編第一編が問題にしているのは、その人間が<誰の言葉や指図で生きて行くか>と<どこで誰と一緒に生きて行くか>という点なのです。上記の「神に逆らう者の計らいに従って歩まず」は、まさに<神様に逆らう者の言葉や指図に従うな>ということであり、「罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」は<悪人や傲慢な人間の隣で彼らの仲間となって生きるな>と言っているのです。なぜ、このような、その人が<誰の言葉や指図で生きて行くか>と<どこで誰と一緒に生きて行くか>という点にこだわっているかと言えば、その理由は、人間はどうしても近くにいる人から影響を受けてしまうからです。 人は独りでは生きて行けません。誰かと支え合い、守り合ってようやく生きていけるものです。そうであるのに、世の中の多くの人は、独りで生きていけるようになることが最も必要なことだと言います。そして、経済的に独立した人間となることが<大人となること、一人前>と言われて、親も子供にそのことを望むのです。 でも、肝心なことがそこには抜けているように思います。それは、私たち人間はそんなに強くないということです。自分さえしっかりしていればすべてうまくいく、良き人生が送れるという考えは甘いのです。どんなにこの世を生き抜く力や術を自分の中に蓄え、知識や考え方の面でもしっかりとした自分の考えを持つようになったとして、自分一人だけで生きていけるわけではありません。必ず、誰かと一緒に生きて行かなければなりません。自分の考えだけ主張していれば、すべて事がうまく運ぶわけではありません。むしろ、周りとぶつかって、世の中の人は自分のことをちっとも分かってくれないと、この世の中や周りの人を恨んで生きるか、または、この世には自分の居場所がないと絶望するかです。隣にいる人の考えや思いを受け止めながらでなければ人はしっかりとは生きて行けないのです。そして、まさにその時々で誰と共に生きるか、誰と人生を歩むかで、実はその人の人生も大きく変わって来るのです。 そうであるなら、もっと<誰の言葉や指図で生きて行くか>と<どこで誰と一緒に生きて行くか>という点に注意を払うべきではないでしょうか。そこにこそ《幸せになる》ための条件が隠されていると言い得るのではないでしょうか。 ③ ちゃんと実を結ぶ生き方へと 詩編第一編の書き出しは、幸せな人は「~ではない人」と始まりましたが、次には「~である」人が幸せな人だと続きます。それが「主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人」です。まさに、主の教え=聖書を読むことを「愛し」、いつも「夜も昼も」肌身離さず近くに置いて読むようにしている者こそ《幸い》を得るだろうと。まさに<聖書の言葉や指図に触れながら生きて行く>ということではないでしょうか。そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」と言われています。豊かな水を湛える川の岸辺に根を張っている木は、いつも根から水と養分を豊かに吸い上げることが出来るので、たくさんの花を咲かせ、たわわに実をならせるだろうと。そして、枯れてしまう事がないと言われています。これは、川の岸辺という<根を張り、枝を伸ばしていくために良き場所>でこそ生きよと教えられていると言い得ます。そして、ここでのその良き場所とは、まことの生命の与え主である神様という方の隣りで生きるということを指しているのです。従って、幸せな者とは<神様のそばで、神様と共に生きて行く人>のことであり、その人の生涯は「ときが巡り来れば(必ず)実を結ぶ」生涯となると! 私は、この詩編が人間の《幸せ》に関して《誰とどこで生きるか》という点にこそ注目していることがとても大事だと思います。自分の才能や実力があるかないか、またはその才能や実力をどう伸ばしていけばよいか、ということにのみ汲々としている現代の私たちにとって、むしろ、どんな場所で誰と一緒に生きていくか、という点に注意しなさいと教えてくれているのです。幸せになる秘訣はそこにあると。 悪しき者たちに加わらず、良き場所に「植えられた木」として神様のそば近くで根を下ろし、枝を張って生きて行くならば、いつかちゃんと「実を結ぶ」ことへと導かれるのです。 |
上尾合同教会 武田真治牧師 (たけだ しんじ) |
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