2020年1月のみことば

あなたの人生の主は?

  一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
               (ルカによる福音書10章38~42節)

  「ナポリの子ども」という有名な話があります。第二次世界大戦の終わりに米軍がナポリに入ってきた時、米軍は戦争をしながら南からイタリアを解放して行きました。そして北上していた米兵が、教会の前で居眠りをしたり、通りの人を眺めたり、おしゃべりをしたりしている子どもたちを見て、「これは良くない」と思って次のように語りかけた、というのです。

 「真昼間から居眠りしたり、おしゃべりばかりしないで、早く学校に行って勉強しなさい。」

 ところが、子どもたちは「どうして学校に行かなきゃいけないの?」と質問をしてきたのです。「そりゃ、学校に行って、よく勉強して、良い成績をとって…」と再び米兵が言うと、「それじゃあ、良い成績をとってどうするの?」と子どもたちが聞き返す。「それは、もっと上級学校に行って、やがては大学にも入り、そこでもしっかり勉強することができるじゃないか。だから、学校に行きなさい」と言うと、「だけど、大学で勉強して卒業したらどうするの?」と子どもたちはさらに聞くのです。

 そこで米兵は「良い大学に入って、良い成績で卒業すれば、良い会社や良い役所に勤められる。そういうことになれば、収入も多くなるし、良い結婚ができるかもしれない」と言います。「それで、それから?」と聞かれて、「大きな会社に勤めて、出世して、結婚して、子供もできるし、子どももまた学校に行く。そして郊外に立派な家が買えるかもしれない」とまたまた答えると、子供はさらに「それからは?」と聞いてくるのです。

 「いや、だからそうすれば、大変愉快に暮らすことができるし、自動車も買えるかもしれないし、子どもたちもまた、良い学校に行って、良い就職ができるかもしれない」と米兵が答えると、「それからどうするの?」と子どもたちがまたまた聞き返す。

 「そのように60歳の定年まで暮らすんだ。」

 「それから?」

 「定年になったら子供たちも独立したし、郊外の家でゆっくりと何もしないで休むんだ。」

 するとナポリの子供たちは「そんなに長く待たなくても、それこそ今ここでぼくたちがやっていることだよ」と言った、というお話です。

 確かに、学歴があっても収入が多くても、行き着く先が「安楽に暮らす」ということであれば、ナポリの子どもたちはすでに安楽に暮らしているわけですから、勉強する必要はないことになります。「何のために学校に行くのか」「何のために働くのか」ということは、突き詰めるなら、「人生の目的は何か」「生きる意味は何か」ということです。

 もちろん、「人生の目的」や「生きる意味」については人それぞれでしょう。米兵のように漠然と「安楽に暮らすこと」を目的としている場合もあれば、「立派な人間になること」に人生の目的をもっている場合もあるかもしれません。しかし、少なくともナポリの子どもたちが見抜いたように、学校に行くことでも働くことでもありません。それは目的に到達するための手段の一つであって、それ自体が人生の意味や目的になるわけではないのです。

 では、「生きる意味」「人生の目的」はどこにあるのでしょうか。ルカによる福音書10章38~42節は実にそのことを私たちに教えているように思います。

 さて、まずこの箇所には二人の女性が登場いたします。一人がマルタで、もう一人がマリアです。マリアという名前は聖書に何度も登場しますが、マルタという名前は、聖書の中ではこのマルタただ一人だけです。ちなみに、マルタという名前は「女主人」を意味しています。そしてこの「女主人」という名をもつマルタが「家の主(あるじ)」として忙しく立ち振る舞ってイエスをもてなした、というのです。
ところが、一方のマリアの方は「主の足元に座って」御言葉に聞き入っていた、と書かれています。普通に考えれば、明らかにマリアの方が分が悪いわけですが、イエスはこのマリアの方を誉めたのです。なぜでしょうか。

 実は、この「足元に座って」という言葉は、聖書の中では大変重要な言葉で、使徒言行録22章3節以下では次のようなところで登場しています。

 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。……」

 その後パウロの弁明が続きますが、ここで「ガマリエルのもとで」と訳されている言葉が、「主の足元に座って」という際に使われている言葉と同じなのです。つまり、パウロがガマリエルのお膝元で律法の勉強をしたのと同じように、マリアもまたイエスの弟子として御言葉に聞き入っていた、ということです。マルタは主(あるじ)として振舞おうとしましたが、マリアの方は徹底的にイエスをこそ主(あるじ)として振舞おうとしたのです。

 自らを人生の主(あるじ)と見なす生き方は、人間を最も優れた者とみなす生き方であり、死が人間の最後にあるもの、との前提に立つ生き方です。一方、マリアが選んだ生き方は、私たちの生命が死で終わるものではなく、死を超えて働かれるお方がおられ、そのお方に人生を預けて行こうとする生き方と言えます。

 実にこうした信仰をもつ者は、もはや自分の内に生きる意味や目的を求める必要がなくなります。私たちの人生の意味や目的が、私たちの内に求められるようなものではなく、神の内にこそ求められるものであることを知るからです。この主従関係の転回こそが、わたしたちを「死すべき生命」から「永遠の生命」へと導くのではないでしょうか。

行田教会 西川晃充牧師
(にしかわ あきみつ)





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