2020年2月のみことば

人は何ものなのでしょう?

主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。 
天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。
あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。
あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていだかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。
羊も牛も、野の獣も 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。
               (詩編8編2~10節)

 深谷かほる「泣く子はいねが~」「心で泣く子はいねが~」と夜ごとに涙の匂をかぎつける夜廻り猫の遠藤平蔵が人気を集めています。深谷かほる著の8コマ漫画です。
 涙の原因が除かれるわけではないのですが、その優しさに読者はほんのりとした気分を味わいます。しかし、それだけ世の中が不安定で理不尽で、先の見しもつかず悩み苦しみ、心が凍えている人が大勢いるということでしょう。

 自家製ジェット機で移動し華やかな社交界で行動する超リッチな人もいれば、タクシーにも乗れず痛む足を庇いながら行動する人もあり、なんと貧富の差の甚だしい世の中でしょう。しかし、どちら側の人が人間らしく生きて、人として幸せかというと、一概に答えは出せません。何故なら人は自分自身が何ものであり、何を目的として生きるべきかを知らない人が多いからです。

 リッチな境涯に生まれても、生きる道に迷い真の友も得られず孤独であるかもしれませんし、たとえ貧しい境涯であったとしても、生きる道を知り、真の友と共に歩むなら、現実がどのようであっても、不治の病に罹っていたとしても、真の友の励ましの内に、心は現実の痛みを突き抜けてはるか永遠の世界にまで届き、穏やかで感謝に満ち溢れるからです。あなたには真の友がいらっしゃいますか?

 私たちにとって真の友とは、私たちの救いのためにお命をささげて下さったイエス・キリストです。 背後にその愛する独り子を私たちに下さった父なる神の深いご愛があります。

神はあなたに心を留め、顧みて、手を差し伸べてくださいます。もう孤独ではありません。
 あなたに手を差し伸べてくださる神がいると申しても、人は本当に神が存在するのだろうかと考えます。ああではないか、こうではないかと様々に考えます。その神は人の頭で想像した神であり、人間の理想と欲望が造り上げる神で、真の神とは言えません。真の神はイエス・キリストを通してのみはっきりと私たちは知ることが出来ます。 

 パスカルは「我々は、ただイエス・キリストによってのみ神を知るばかりでなく、またイエス・キリストによってのみ、われわれ自身を知る。我々はイエス・キリストによってのみ生と死とを知る。イエス・キリストを離れて我々は我々の生、我々の死、神、我々自身が何であるか知らない」と言っております。

 イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、私たちは父なる神の御愛~私たちを一人も滅ぼさないで永遠の命を与える~という御旨に深く気づかされるのであります。イエス・キリストの十字架の贖いによって私たちの罪をないものと看做して下さり、ご復活によって、私たちの有限の命を永遠の命に繋いでくださった。乳飲み子のように何も出来ない無力なわたしたちをそれほどまでに顧みてくださるとは、私たち人間とはなにものなのでしょうと本当に思います。

 真の神は、汚れた世界にどっぷりと浸かって、神様を見ようともしない私たち一人一人を探し出して下さり、もれなく救い出そうとなさいます。それを私たちが気づかないだけなのです。そして、世界中で誰も自分を理解してくれる人がいないと孤独に悩むのです。汚い世界のものを見るのでなく、視点を変えて、天地創造の神、全知全能の神、そして愛なる方に目を向けて見ましょう。

 詩編8編の詩人の感動を自分のものとして味わえるのではないでしょうか。何でもご存じの神はあなたの悩みもご存じです。そして、あなたにふさわしい道を準備してくださっております。私たちが生まれる前から神はあなたを知り、使命までも備えてくださっております。そのことに気づくなら、もう孤独ではありません。あなたは神に知られ、愛されています。

 詩編8編の詩人は、素晴らしい広大な宇宙の美しさ、静かなる秩序に驚嘆しつつ、その背後にある神に思いを寄せております。小さな人間に心を向けられていることに感動し賛美しております。詩人は自分もまた神の被造物であることを知っております。創造者である神と被造物である人間、この関係こそが、人間の在り方、生き方が決定されて参ります。神は人間を愛し、独り子を賜るほどに愛された。人間は神を讃美しお従いする関係です。

神との関係からずれ、的をはずした生き方、それは罪です
 教会で「罪人」と言われると抵抗を感じると指摘されたことがあります。何も悪い事はしていないと。教会で語る罪とは世の刑事的犯罪ではなく、神に逆らうこと、神なしで生きられると言う自分本位な生き方をさしております。

 始めの人、アダムとエヴァは神と共にエデンの園におりました。神はエデンの園のどの木からも、心のままに採って食べていいと言われました。ただ、園の中央にある禁断の木の実は食べてはいけないと。食べると、きっと死ぬだろうと言われました。(創世記2章16~17節)。どうして、神が禁断の木の実をおかれたかですが、これを守ることによって、造り主である神と造られた人との関係をはっきりさせるためでした。

 造られた人は、造り主である神を見上げて、神を規範として生きるようにされたのです。「これだけは食べてはいけないよ」「これはしてはいけないこと」ということを人が守っていくとき、人は神と正しい関係にあります。神が先にたち、人がお従いしていくという関係がこの禁断の木の実にあります。禁断の木の実がなかったら、人は何をしても良いことになり、祈ることを知らない動物と同じになります。人の心の世界がなくなります。神は人に自由意志を与えられましたが、人が自分の意志をもって、神にお従いする。これが守られていたときのエデンの園はまことに素晴らしい楽園であったのです。

 しかし、蛇はエヴァに疑いを起こさせました。その時、禁断の木の実はエヴァにとって実に美しく、美味しそうに見えたのです。疑いが欲望を刺激してエヴァは食べてしまいます。自分が食べただけでなく、夫アダムにも食べさせました。男は女の誘いに弱いのです。アダムもエヴァも楽園から追放されます。これは大昔のお話しと思われるでしょうか。決してそうではなくて、現代に生きる私たちにも適用されます。

 私たち人間の欲望は際限なく膨らみます。大金持ちになりたい、人を支配したい、名誉が欲しい、どの国よりも強い国になりたいと神様のみ言葉を聞くよりも、財産や武力を増やすほうに喜びを感じるようになり、いつしか、神の存在さえも忘れて、神なしで自分は生きられると「自分本位」「自国本位」に生きてしまいます。これが的をはずした生き方、罪の生活です。
 「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙1章15節)

神は完全な賜物をくださいます
 人が生きていく時に苦難はつきまといます。特に昨年は自然災害に見舞われました。いまだに復興されずに苦しんでおられる方がいます。そんな時、私たちは呟きます。「神様はどうしてこんな惨いことをなさるの」と。普段、神様と無関係な方でも、このように言われます。台風がいつまでも過ぎ去らないで居座るのは、地球温暖化による影響だと。経済最優先でCO2を垂れ流した結果だと聞いております。人間の欲望の罪の結果ではありませんか。

 詩編8編の詩人は、7~9節で神が被造物のすべての管理を人間に任されたといって、小さな人間を信頼される神に感歎の声をあげております。しかし、神のお言葉を聞かない自分本位の人間の犯した罪の結果で災害は引き起こされ、人間に限らずすべての被造物に被害を蒙らせました。山の雪は流れ去り肥沃な土地は水不足で荒れ果て、氷山が解けて土地が水面下に埋没します。人も他の被造物もいまや呻いております。

 私たち人間は、すべての管理を委ねられた神の信頼を裏切っております。災害は決して神からくるものではありません。神が私たちにくださる「賜物」は最上で、完全なものです。私たちに悪いものはくださいません。ヤコブは「愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。」(ヤコブの手紙1章16~17節)。と戒めます。「賜物」とは「何か良い事をしたから報いてあげようという」という報酬ではありません。神が一方的に与えたいから与えてくださる愛ゆえの恵の贈り物であります。

 主イエスも言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」と。(マタイによる福音書7章9~11節)。神の贈り物はすべて良いものだと言われました。

 日本の神様は罰を与える神と思われております。何か嫌なことが起きますと、神様の罰だと納得させるのです。真の神は罪、汚れを嫌う聖なるお方ですが、愛そのもののお方です。独り子である御子をさえ私たちのために十字架につけられて、私たちの一切の罪を無いものにしてくださいました。罪や悪に対する神の怒りを主イエスが少しも残さずにご自分で引き受けてくださったのです。

 十字架上で主イエスは「すべて終わった」と言われました。この時に、神様の怒りは完全に取り除かれて、私たちは怒りの対象でなくて、恵みの対象となり、良い贈りもの、完全な贈りものを頂く者とされました。良いおくりもの、完全なおくりものとは、まさしく御子イエス・キリストにほかなりません。

あなたは新しく生まれかわりますー神の業、み言葉の力で
 詩編8編の詩人は神の「指の業」(詩編8編4節)を見上げております。指の業といいますと、とても繊細な動きが感じられます。神の力強いみ腕の業といわれれば、出エジプトの紅海が見事に二つに割れた奇跡などを思い浮かべます。繊細な動きならば、サラサラと美しい文字を書かれているのではないでしょうか。きっとそうです。神はあなた宛てに手紙を書かれております。聖書です。

 聖書66巻(旧約39巻、新約27巻)は一貫してイエス・キリストが指し示されています。書かれた年代も著者も様々ですのに、聖書のみ言葉はイエス・キリストご自身そのものを顕しております。ここに神の指の業、聖霊の働きがあったのです。

 聖書はキリスト教の教えが書かれているのではありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われたイエス・キリストそのもの、イエス・キリストの道、イエス・キリストの真理、命が示されております。故にお言葉自体に力があります。人の言葉はどんなに素晴らしくても、その言葉自体に力はありません。キリストのお言葉には言葉自体に力があって一人一人に働きかけるのであります。

 お言葉を深く受け止めていくとき、知らず知らずのうちに、私たちは浄められ新しく生きるものとされていきます。難しい神学を学ばなくても、修行をしなくても、そのままのあなたにお言葉が働きかけてくださるのです。生活は以前のままであっても、視点が変わり、価値判断も変わります。お言葉をしっかりと受け止めた方に使徒パウロがおります。

 パウロはかつてキリスト者を迫害する者でした。でも、復活のイエス・キリストが出会ってくださり、180度変えられました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)とキリストと共に生き、異邦人伝道にまい進しました。パウロは数えきれない程の迫害に遭いましたが、キリストと共に在り、どんな艱難にも窮せず希望の人生を送りました。
 
 ここまで辛抱強くお読みくださったあなたに感謝します。舌足らずでありましたが、人は何者なのか、人の正しい生き方、神から与えられている使命が何か、少しでもご参考になればと願います。夜廻り猫君に負けないように、お言葉を抱えて、涙の匂のする方々をご一緒に訪問いたしましょう。


越谷教会 鈴木惠子牧師
(すずき けいこ)





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