2020年3月のみことば |
(新共同訳) 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られた者であり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 (口語訳) あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、誰も誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 (エフェソの信徒への手紙第2章8~10節) |
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(口語訳)。 「わたしたちは神の作品」。この言葉は、恐らくキリスト教会の中で愛されてきた言葉ではないかと思います。聖書の元の言葉は、「わたしたちは神の御手によって造られた者」という言い方がなされています。別の翻訳では、「わたしたちは神の芸術作品」とも訳されます。「芸術作品」という言葉には、「よい作品」という意味と同時に、同じものはひとつもない、という意味も込められていると思います。私たちは、そのような、価値ある「神ご自身の御手によって造られた、神のよき芸術作品」だということが、ここで言われているのです。ある方は、そうであるならば「わたしたちは神の傑作」なのだと言います。 2019年5月の終わりに、川崎で、小学校の児童とその保護者が殺傷されるという痛ましい事件がありました。その時、その犯人に対して「不良品」と呼んだある芸能人のことが話題となり、批判を受けました。その報道を見て考えさせられました。私たちには、そのような考え、つまり、何らかの事情でいわゆる「引きこもり」になっている人や、あるいは精神疾患を持つ人、身体的な障がいや知的な障がいを持つ人に対して、「不良品」とは言わないまでも、いわゆる“普通の人”に比べると、不幸な人であるとか、欠陥のある人、劣っている人、というように思う、そういう考えが根深く巣食っているのではないかと、改めて思わされたのです。「自分にはそんな考えはない」と思われる方も多いかもしれませんけれども、ほんとうにそう言い切れるだろうか、と思うのです。 自分のことで恐縮ですが、私は、2007年の夏、「パニック障害」と診断されました。2009年春に、夫の転任に伴い、約13年間仕えた鎌倉の教会を離れ、埼玉に参りまして、休養生活に入りました。それから9年を経て、2018年に牧師の務めに復帰することができました。 その休養中のことですが、「この機会に今まで経験したことのない仕事をしてみよう」と思い、いくつかのパートの仕事に応募しました。恥ずかしながらそういう経験は初めてでした。履歴書の「健康状態」を書く欄に、正直に病気のことを書いて応募しました。二つのところから書類選考で断られました。ひとつのところは面接を受けに行きました。そのとき、病気のことをあれこれと聞かれましたので、ありのままを答えました。採用されませんでした。その時、「私みたいな病気を抱えている人間は、それが良くなったと言ってもダメなのかな…」と思いました。 かかりつけのカウンセラーにその話をしましたら、「履歴書に病気のことは書かなくてよい、書けばみんな落とされるから」と言われ、それで良いのかどうかと戸惑いながらも、その後は履歴書の「健康状態」のところには「年相応に良好」と書くことにしまして、面接の時に健康のことを聞かれたらそれなりに答える、といたしましたら採用されました。世間とはこういうものなのだということを知らされた、私の小さな経験です。 けれども、世間だけではなくて、私自身も含めて、私たちひとりひとりの心の中には、いわゆる一般常識という名の尺度、あるいは人の優劣を決める尺度、というものがあるのではないかと思います。私たちはそれぞれ、“自分の物差し”が心の中にあって、それでこの人は優秀だ、この人はそうでもない、この人は自分よりも劣っている、この人は気の毒なひとだ、この人は…というように、無意識のうちに他人をはかり、差別をつけながら生きているのではないか、と思わされます。 しかし、聖書は、私たち一人ひとりに対して「わたしたちは神さまに造られた神の作品」、しかも、世界にたったひとつの「善き芸術作品・傑作」だと言うのです。他の誰が何と言おうと、人がどのように見ていようと、また、自分自身が自分のことをどう思っていようと、造り主であり、父である“神さまの物差し”では、私たち一人ひとりは、価値ある存在、神の善き芸術作品、しかも傑作だと言うのです。 旧約聖書のイザヤ書の中に、こういう言葉があります。「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土。あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」(64章7節)。私たちは、父なる神さまの御手の業だと言われます。その御手による作品であるゆえに、私たちは皆、神さまにとってはかけがえのない価値ある芸術作品であり、傑作なのです。 また同じイザヤ書には、このような神さまご自身の言葉も記されています。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し…」(43章4節)と。神さまの目には、その御手をもって、愛を込めて、お造りになった私たちひとりひとりが、まことに価高い、価値ある、貴い存在として見えていると言うのです。人間の物差しで見たらどのように思われたとしても、神さまの物差しで見たらならば、私たちは皆、一人ひとり、神さまのお気に入りの愛する自慢の作品、傑作だと言われるのです。 しかしながら、残念なことにその傑作が壊れる、壊されてしまう、ということが起こります。聖書は、そのようなこともはっきりと記します。神さまに造られた芸術作品であるかけがえのない私たちひとりひとりは、とてももろい、壊れやすい、崩れやすい、そういう者たちであるのです。 神さまがその御手をもって、愛を込めて造ってくださった、そういう神さまの大切なよき芸術作品、傑作である私たちは、しかし、先ほどのイザヤ書の言葉にありましたように、また、創世記の初めに記されますように、粘土・土から造られた土の器です。土の器は、壊れやすいのです。そして、壊れたら全く同じ元の形には戻りません。 皆さまは、とても大切にしていた何か、宝物のように大事にしていたものを壊してしまった、ダメにしてしまった、という経験がおありでしょうか。数か月前、私は、何年もずっと大事にしておりました小さな絵皿を落として割ってしまいました。何とか元に戻らないものかと割れたかけらを集めて組み合わせてみましたが、細かく割れてしまった部分は元に戻らず、それでも諦めきれず、捨てられず、布の袋の中にすべてのかけらを大切に入れて、今も捨てずにとってあります。 私たち人間も、どんなに大切にされ、愛されて育ちましても、壊れるということがあります。周囲の人たちに、そして神さまに、大切にされ、愛おしまれながら育ってまいりましても、何かのきっかけで、壊れてしまう、崩れてしまう。私たち人間は、そういうもろい存在です。 突き詰めて言うなら、それは、私たちが死ぬべき存在である、というところにはっきりと表れます。「土の器」は、もろく、壊れやすく、そして壊れる存在、いずれは死ぬ存在です。どんなに優秀な人でも、どんなに大切にされ愛されて育った人でも、その肉体は、どういう形であれ、いつか必ず壊れます。死ぬのです。「死」という、私たちの誰もかなわない力、その支配の中に、私たちは皆「今」という時を生きています。 そのような「死」に取り囲まれた、「死」の支配の中で、私たちはいつの間にか、自分が本来願っていたような生き方ではなくて、ほんとうはこんな生き方はしたくないのにというほうへ、ほんとうは嫌だと思うような生き方へと、引き寄せられていってしまうこともあるのではないでしょうか。人を信じるのではなくて疑い、愛するのではなくて妬み、憎み、恨んでしまう。人の良いところをほめるのではなくて、欠点をあげつらっては悪口を言い、そして、自分の物差しで人を計っては、あの人は良い、あの人はダメだと決めつけて、差別したり、裁いたりしてしまう。まるで、自分自身が全能の神であるかのように、振る舞い始めてしまうのです。 「死」の力の支配の中で、私たち人間の傲慢さ、身勝手さ、聖書が言う「罪」に、私たちは覆いつくされてしまっている、そういう者たちなのではないかと思います。そのようにしてそれぞれの「罪」のゆえに、互いに壊し合う、あるいは自らを壊してしまう。私たちは、そういうもろい存在だと言わなければならないと思うのです。 しかし、造り主である父なる神は、そういう私たちを「失敗作」「不良品」だと、叩き割って捨ててしまうのではなくて、「この上なく」、“これ以上はない”というほどに、「愛してくださった」のだと、この手紙の第2章4節は記します。 造り主である神さまの物差しは、「愛」という物差しです。そうであるからこそ、ご自分がお造りなった私たちが、自分の罪や人の罪によって粉々に壊れてしまったとしても、「愛」をもって壊れた私たちをご覧になり、また、「愛」をもってその壊れた私たちを何とかしよう、としてくださるのです。 そしてそのためにこそ、御独り子イエス・キリストを、私たちと同じもろく死にゆく人間の姿で、私たちと同じ肉体を持った人間として、この世に、私たちの世界に、与えてくださったのです。 8,9節にこうあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。 「救われる」ということは、造り主である神さまが「よい作品」、芸術作品、傑作としてお造りくださった私たちの本来の姿が回復される、ということです。神さまに喜ばれ、また人々からも喜ばれ、自分自身の喜びともなる、「善い業」を行って歩む者として生きるようになる、ということです。その救いは、私たちが自分の力で頑張って、何か神さまに喜ばれるようなこと、周りの人から褒められるようなこと、自分でこれはよい、と満足できるようなことを行えば与えられる、というものではありません。そうではなくて、ただ「恵みにより、信仰によって」「神さまからの賜物、ギフト」として与えられるのです。 その神さまからの最大の恵みの賜物、それが、神さまが私たちのために与えてくださった御独り子、イエス・キリストです。御子イエスは、私たちと同じ人間として、私たちと同じ死ぬべき肉体をお持ちになり、私たちと同じ悩みや苦しみ、悲しみを経験してくださいました。何より、私たちすべての者が取り囲まれている「死」の支配の中に、生きてくださいました。そして、造り主である神さまの愛の御心を台無しにしてしまう、そういう「罪」の私たちの身代わりとなって、神さまの怒りを引き受けてくださったのです。 それゆえにこそ、御子イエスは、十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、絶望の叫びを叫ばれたのです。それは、造り主である神が、私たちを「失敗作」「不良品」として見捨てたのではなくて、私たちの代わりに、御子イエスを、捨てられたからです。御子イエスは、神から見捨てられるという、一番深い絶望を味わってくださいました。私たちが抱くあらゆる絶望よりも深い、底知れない深い絶望の叫びを叫ばれたのです。 この御子イエスの十字架の死ゆえに、私たちはもはや、自分自身についても、また他者についても、そして、この世界の将来についても、絶望しなくてもよい者たちとされました。もはや絶望しかないという時、「死」に直面するような時にも、御子イエスが既にその死を死んでくださり、私たちが死ぬべき死の道筋を、御子イエスが先に通ってくださり、しかも、それだけではなくて、死からいのちへと、復活の命への道を切り開いていてくださったのです。そのゆえに、私たちには絶望ではなくて、希望が与えられました。 このような救い主が、「神の恵みの賜物」として、私たちに既に与えられている。私たちは、この御子イエスにおいてこそ私たちの真実の救いが実現するのだと、信じればよいだけです。 私が大切なお皿を割ってしまったということを、友人に話したとき、その友人が、「金継ぎに出したら」と、その友人が使ったことがあるという、金継ぎをしてくれる工房を教えてくれました。 「金継ぎ」というのは、割れたりヒビが入ってしまったりした陶磁器を、漆(うるし)を使って丁寧にくっつけて、金の粉で装飾して仕上げる、日本古来の修復技法、だそうです。この「金継ぎ」をすることで、壊れてしまった器はより美しく甦り、金継ぎを施された器は、より芸術性の高いものとして文化財に指定されることもあるそうです。その友人が金継ぎに出して修復してもらった器を見せてもらいましたが、とってもすてきに生まれ変わっていました。 言ってみれば、造り主であり父である神は、その御独り子イエス・キリストによって、金継ぎをするように、壊れた私たちをさらに美しい芸術作品として造り直してくださるのです。世界に二つとない、さらにすばらしい芸術作品、傑作としてくださる。ただ、恵みの賜物として、そうしてくださるのです。 聖書は、この第2章4節以下に、「キリスト・イエスによって」「キリスト・イエスにおいて」という言葉を3回繰り返します。イエス・キリストという、私たちの言い慣れた呼び方ではなくて、「キリスト・イエス」と、わざわざ呼んでいます。それは、キリストであるイエスという意味を強調した呼び方です。キリストすなわちメシア、つまり私たちの救い主であるイエス、ということを特に強調して、そのキリスト・イエスによって、キリスト・イエスにおいて、キリスト・イエスにあって、と語るのです。 私たちは、このキリストであるイエスによって、その恵みの御業、救いの御業によって、ただ恵みによって、金継ぎを施された器のように、さらに美しい器に生まれ変わらせていただけるのです。それは、私たちが真実になりたい自分にされる、ということでもあります。「善い業」を行って歩むことを、心からの喜びとして生きる者とされる。救われるとは、そういう自分になることができるということです。 そのために、神さまは「前もって準備してくださった」、「わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さって」いたのです。すべては、神の恵みの賜物です。 「神の傑作たち」の歩み、それは、神の恵みが見えてくるような歩みです。神の恵みの豊かさを、全存在をもって表すような「善い業」を行っていく歩みです。そして、多くの芸術作品の傑作が、後の世に残るように、神の傑作たちの歩みは、「その限りなく豊かな恵みを来たるべき世に現わ」して行くのです。 お祈りをいたします。 造り主なる父なる御神、恵みの賜物として、あなたが私どもに与えてくださった御子を、私どものまことの救い主と心から信じ愛する信仰を、私どもに与えてください。あなたのみ恵みをただ恵みの賜物として受け入れる信仰を、私どもに与えてください。まだ信仰を与えられていない、洗礼を受けていないすべての人たちに、主イエスを「わたしのまことの救い主」と信じる信仰が与えられ、真実に自分らしく生きる喜びが与えられますように。私どものただひとりの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈り願います。 アーメン。 |
聖学院教会 東野ひかり牧師 (ひがしの ひかり) |
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