2020年4月のみことば

ここに愛がある

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
               (ヨハネの手紙Ⅰの4章7節~11節)

 今日はヨハネの手紙Ⅰの4章7節~11節から、ここから「人の愛」と「神の愛」についてみなさんとご一緒に考えてみたいと思います。今日の説教題は「ここに愛がある」です。

「私は今、天国にいるようです」
「私には子どもが4人います」
「教会が小さいから子どもの数で勝負しています」
「3人は女の子で、一番下が男の子です」
「夕食のときには、みんなで一緒に食卓を囲みます。すでに結婚している娘は夫を連れて来ます」
「そしていつもお客さんがいます」
「私の妻の作る手料理をみんなで、ああでもない、こうでもない、と言いながらいただくのです」
「たいがい娘は母親の味方をして、父親である私はいつもけちょんけちょんに言われっぱなしです」
「しかし、私は、子どもたちに囲まれ、愛する妻がいて、とにかく私の今は天国です」
「現実に今、こんなに幸せな生活を送っています」
「天国があるとかないとか疑う余地がないのです」

 こう言ったのは誰かというと、私の恩師N先生です。おいしい御馳走が並んでいて、家族が仲良かったら、どんなに幸せでしょうか。御馳走がなくても、家族が仲良く、平和であったら、それでも天国でしょう。旧約聖書の箴言には素晴らしいみことばがあります。
 「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。」(箴言17章1節)

 私たちの世界において、人間の世界において、一番大切なものは何でしょうか?それは何と言っても愛でしょう。そして、それは具体的には夫婦の愛だと私は思います。

 私は5年間単身赴任の生活をしてきました。ひとりで生活をしていたのです。ひとりでの生活は、初めは気楽でよかったですが、やはり長い目で見ると大変です。何でもかんでもひとりでやらなければなりません。うっかり病気にもなれません。私は5年間礼拝、祈祷会を休まなかったのは奇跡だと思っています。ですから、息抜きのためにも2か月に1度は家に帰るようにしていました。家に帰ると、駐車場まで妻と息子が出迎えてくれます。妻は「ご苦労様でした」と言います。息子は「お父さんお帰りなさい」と言って荷物を持ってくれます。しかし、なぜか娘は出迎えてくれたことがありません。娘はいつも家の中で何かお手伝いをしているようです。そして、家に入ると「パパ~おかえり」と言います。たぶん出迎えるのが恥ずかしいのでしょう。私はこの一瞬で癒されるのです。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きて行けません。愛されて、また愛さなければ生きていけない存在なのです。しかし、この世の中に本当の愛はあるのでしょうか?私たちに、本当の愛はあるんでしょか?本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるんでしょうか?どんなに美しく愛し合っていても人間の愛には限界があります。それは罪をもつ人間の限界です。

 ここに美しい花があります。何故、人がこの花を愛するかというと2つの理由があります。①この花が、美しいという「価値」があるからです。②この花が、自分を「満足」させてくれるからです。これはギリシア語では「エロースの愛」のことです。「エロースの愛」は人間の愛です。価値がなくても、どんなに醜くても、自分を満足させなくても、たとえ自分に敵対しても愛する愛、これを同じギリシア語で「アガペーの愛」と言うのです。エロースの愛は人間の愛です。アガペーの愛はそれを超えた愛、何の条件を求めない愛、無条件の愛、これが神の愛です。

 本物の愛はあるのでしょうか?どこに、真実でいつまでも続き、裏切ることのない愛があるのでしょうか?
 聖書は「ここに愛がある」と言っています。ヨハネの手紙Ⅰの4章7節~11節をお読みします。
 ⑦~⑨「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
⑩(今日の中心聖句)「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」


 聖書は「ここに愛がある」と言っています。十字架上に愛があると言っています。「なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神は御子をこの地上に送ってくださいました。この御子が十字架上で死んでくださいました。この御子に愛があったのです。神は、イエス・キリストを十字架につけてくださいました。私たちの罪のために十字架につけてくださいました。頭にはいばらの冠をかぶせられ、手足には釘を打たれ、わき腹には槍を突き刺されました。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心でも、神と人に敵対さえしても、神はこんな私たちをも愛してくださいました。それは私たちの罪を赦し愛するためだったのです。

 ⑪「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
 これはイエス・キリストの律法です。律法とは守らなければならないものです。「私たちもまた互いに愛し合うべきです」これは新しい律法です。「自分と同じように自分の隣人を愛しなさい」と律法にあります。イエス・キリストの律法は神の愛、神の恵みがあるからできるのです。価値がなくても、醜くても、自己中心でも、神と人に敵対さえしても、神は私たちを愛してくださっています。私たちが愛することができるようになったのはこの愛によるのです。愛に自信のなくなった人は、どうぞ、イエス・キリストの十字架を見上げてください。愛は律法を全うするのです。イエス・キリストは律法を成就するため来られたのです。
 この神の愛を信じて生きて行きましょう。「ここに愛がある」のです。

 神学生の時、秋田で牧会されているM牧師から美しいお証しを聞きました。彼は昭和43年韓国プサンで結婚しました。(昭和43年ですから大分前のことです)妻は韓国人でした。この結婚に両親は大反対でした。式をあげてすぐ日本に帰れませんでした。当時は日韓国交正常化直後のことですぐに帰国できませんでした。40日間韓国での生活を余儀なくされました。結局手続きがうまくいかず自分だけ帰国しました。それから2年6ヵ月後、待ちに待った妻がようやく日本に来ることになりました。昭和45年ようやく、フサンから福岡へ飛行機でやって来ました。彼は夜行列車で秋田から福岡に向かいました。当時秋田から福岡までまる1日かかったそうです。空港には少し早く着きました。妻を待つとき胸がどきどきしました。何度もトイレに行って鏡を見ているうちに、飛行機が着きました。しかし妻はなかなか降りてきません。ようやく一番最後に降りてきました。彼は彼女を見て驚きました。彼女は別人のようになっていました。ふっくらとした面影はなく、やせて、顔は黒ずんでいました。彼女は結核に侵されていたのです。薬の副作用で顔は黒ずんで、体は痛々しいほどやせ細っていました。その時彼はふと「あ~、妻として秋田の両親に紹介できない。また教会の人々に紹介できない」と思ったそうです。しかし、その瞬間、彼はイエス・キリストの十字架を示されました。キリストはもっと醜い姿をしていた。その時妻を生涯守りますと献身を決意しました。妻を秋田の病院で診てもらうと片方の肺は駄目で、もう片方の肺3分の2で生きている状態でした。何も言うことは出来ません。当時彼は神学生でした。神学校から病院まで自転車で40分かかりました。午前中授業、午後仕事、夜病院へ通いました。妻は毎晩泣いていました。頼れる人がいなくさみしかったのでしょう。3年8ヶ月、毎日病院へ通いました。秋、冬は寒さと雪で自転車で通うのは大変でした。そして、彼女は奇跡的にいやされました。妻は彼に言いました。「あなた有難う」「あなたの愛がなければ生きてこれなかった」と言いました。「生きているのはあなたの愛のおかげです」と言いました。2人は神に祈りました。彼はこう祈りました。「私には愛がありませんでした。神が私を愛してくださったから愛することができたのです。」そのとき彼の全ての疲れは消え去っていました。

 聖書は「ここに愛がある」と言っています。「ここに神の愛がある」「ここにイエス・キリストの愛がある」と言っています。イエス・キリストの十字架上に愛があると言っています。私たちは、この神の愛、このイエス・キリストの愛をいただき「自分と同じように自分の隣人を愛して」いきましょう。

七里教会 小林則義牧師
(こばやし のりよし)





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