2020年5月のみことば

父なる神の愛

 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
               (ホセア書11章8~9節)

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
                  (ルカによる福音書11章15~24節)

 本日の聖書の箇所は、皆様がよくご存知の悔い改めた放蕩息子の話です。ルカによる福音書には、この他にも良きサマリヤ人の譬え話があります。いずれも神の愛の性質を示している本当に貴重な譬え話です。このような譬え話は主イエスでなければ誰も作れません。
 
 わたしたちはこの譬え話を通して、かつて地上に来て、一人のユダヤ人として過ごされた神の御子イエスの具体的で歴史的な姿を見ることができます。そのことによって、主イエスとの交わりが一層深められますので、この譬え話は非常に慰めに満ちています。
 家出した二番目の息子は、譬え話ですから非常に極端な行動を取ったように描かれていますが、よく考えますとこのような若者はどこにでもいるのではないでしょうか。決してわたしたちと無縁な存在ではありません。正にそれはわたしたちの姿であると言えます。

 「イエスは言われた。ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで父親は財産を二人に分けてやった。」(15章11、12節)
 この話は申命記21章17節に記されている「相続に関する」律法に従っていると、言えます。その規定によりますと、長男は他の息子たちの二倍の財産を相続することになっています。それは弟が独立して家を出る場合を想定して、父は長男と一緒に住み父が生きている間、父は長男の財産を享受することができるようにしています。

 さらに旧約聖書の外典の一つである「エクレジアスティクス」(旧約聖書外典の集会書、別名シラクの知恵)と呼ばれている書物の33章19~23節では、父親が生きている間に財産を子供や妻に分配して、彼らの世話になるよりは、自分の人生の終わりを迎え、いよいよ死期が近づいたとき、財産を分配しなさい。それが賢明な仕方であると勧めています。

 このことを父親はよく心得ていましたが、弟を可愛がっていましたので、本人の希望通りに弟分の受ける分として全財産の三分の一を譲渡しました。
 「何日もたたないうちに、下の息子は全財産を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」(15:13)
 「何日もたたないうちに」とありますが、息子は旅をする前に土地を金に換えなければなりません。そのためには相当の時間がかかります。しかし、多少の損をしてでも売り急いで、弟は遠くの国へ旅立ちました。遠い国と言えば、イタリアかエジプトか或いは北アフリカ、またはバビロニヤなどです。そして、出かけていった先で放蕩の生活に明け暮れ、財産を浪費しました。

 新共同訳聖書で「放蕩の限りを尽くして」と訳されているギリシャ語は、「アソートース」と言います。それは「気にしない」「構わずに」「無謀な」つまり、このような事をしていたら、どうなるかと先のことを考えようともしない、浅はかな態度を意味しています。また、不道徳な享楽に溺れる生活も意味しています。
 この弟は、以前から自分の権利である財産を早く手に入れたいと考えていました。そのため自分を監視する親の目が届かない遠くに行って、思い切り享楽的な生活をしたら、どんなに素晴らしいことかと、そんな生活に憧れていたからです。彼は堅実な生活より、享楽的な生活が遙かに楽しいだろうと想像していました。しかし、それは極めて不健全で、不道徳な、不安定な生活です。そのようなことを楽しいと思うのは人間の浅はかさによるのです。

 しかし、厳しい現実はそのような夢を早晩かならず打ち砕いてしまいます。彼は欲望に溺れた生活を続けているうちに、財布の底が尽きました。
 その上、悪いことが重なり、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は働こうとしましたが、雇ってくれる人は一人もいません。世間の常識的な見方は、この放蕩息子の人生をこの段階まで追跡し、彼のようになってはいけないという一つの教訓を引き出すことで満足し、そこで終わりにしてしまいます。それに対して主イエスの見方はもっと先を問題にしています。

 「その地方にいるある人の所に身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆をたべてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」
 ここで新共同訳聖書は「ある人の所に身を寄せた」とありますが、「ある人に雇って貰った」と言う意味です。しかし、その人は彼を雇っても賃金を払いませんでした。そして支給するはずのパンも与えませんでした。途端に、彼は食べることに窮し、豚の食べる「イナゴ豆」を食べて空腹を凌ぎたいと思うほどでした。イナゴ豆は家畜の餌なので、人間にはとても食べられる食糧ではありません。しかし、腐っている、あるいは害を及ぼす毒物が含まれているというのではありませんから、飢饉の時にそれを食べる人々がいたと言うことです。

 しかしそれだけでなく、ユダヤ人にとりまして、豚は汚れた動物なので豚を飼育する仕事は、ユダヤ人には最も恥ずべき職業でした。
 彼はそのような職業に就かざるを得なくなって、恥と空腹の生活を体験したのです。そのとき、初めて本心に立ち帰りました。
 「彼は我に返った」と聖書に記されています。この語句を意訳しますと、「彼はこれまで自分が何という愚か者であったかを身に染みて悟った」と言うのです。人はここまでしないと、自分の愚かさに気がつかないのでしょうか。しかし、他人の愚かさを容易に気づいても、自分の愚かさに気づくことは難しいのです。

      
 (2)本心に立ち帰って
 それでも、彼は自分の愚かさに気づきましたので、考え方は以前とは全く変わりました。
 「そこで、彼はわれに返って言った。父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、父の所に行こう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。そして彼はそこを立ち、父親のもとに行った。」(15章17~20節)

 この息子は、これまで気づかなかった父親の正しさと愛の深さを知ったのです。同時に、そのような父親のもとから飛び出してきた自分の愚かさと、また自分の責任にも気づくようになりました。それは自分が父を裏切ったということです。それは神に対して、そして父に対して罪を犯したという自覚です。彼はこのことを深く反省しましたので、父のもとで子としてではなく雇い人として働かせて頂きたいという切なる願いを抱きながら父の家に帰って来たのです。

 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(15章20節)
 父親は家出した息子が変わり果てた姿で、とぼとぼと帰ってくるのを遠くから見つけて、走り寄りました。これは父親が常に息子のことを思っていたことを表しています。息子は今どうしているかを案じない日は一日もありませんでした。このような放蕩息子に対しても父親の愛は変わらなかったのです。父親の愛は、息子が家にいる時も、家出した時も、遠くの国で贅沢三昧の生活をしている時も、変わらなかったのです。父親の不変の愛は他のいかなる判断の基準も越えた絶対的な愛である、と言えます。

 この絶対的な愛を聖書は神の「憐れみ」と言う言葉で表現しています。新共同訳が「憐れに思い」と訳しているギリシャ語は「スプラグホニゾマイ」で、「憐れみの思いに突き動かされて」と言う意味です。実にこれは愛するに値しない者、自分を裏切る者、愚かなる者、何の価値もない者、全く邪悪な者を愛する心を表しています。父親は家に帰ってきた放蕩息子を、この絶対的な愛をもって、受け入れました。彼は走り寄って息子の首を抱き、接吻しました。これは息子に対する絶対的愛である憐れみの表現です。

 また、一番上等の服を着せ、手に指輪をはめ、足に履物を履かせました。これは悔い改めた放蕩息子を今新たに、「自分の息子とする」という徴です。そして、この喜びを表すために、父親はパレスチナ地方の習慣によって、肥えた子牛を屠り、料理し、宴会を開き、音楽や踊りも入れて極めて賑やかに祝いました。このように一同と共に喜びを分かち合いました。これは正に大きな喜びの日でした。

 ところが、一日の労働を終えて、家に帰ってきた兄息子は、父が家出した息子が帰ってきたというので喜び、祝宴を開いているのを知って、腹を立て家に入ろうとしません。
 この兄は、放蕩で財産をなくした弟を、「自分の弟」と呼ばず、ただ父の息子と呼んでいます。30節で、「ところが、あなたのあの息子が、娼婦たちと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると肥えた子牛を屠っておやりになる」と父に抗議しています。
 このように兄が腹を立てるのも正当な理由があります。常識的に考えれば当然です。しかし、その段階に止まっている限り、父の憐れみ深い心、絶対愛が少しも分かっていないのです。父の素晴らしい面、父の本当の姿を理解していないのです。

 それに対して、父親は32節で、「だが、お前のあの弟が死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。」と兄を諭しています。
 これは主イエスが造られた譬え話であり、世間の父親の愛情ではなく、神様の愛を示しています。この譬え話は、放蕩息子の譬え話と言うよりは、「神の愛の譬え」なのです。自分勝手な甚だ利己的な考えで、家を出て行った息子を、なお息子として愛し、そのため悲しみ、苦しみの歳月を送り、その間耐え忍び、遂に帰ってきた息子を宝のように喜び迎え、大切にするこの父親の譬えは、正に「神の愛」を語っています。

 これは世の尺度や、道徳的秩序さえも超えた絶対愛です。神はこのような絶対的な愛をもって人間を愛し、自らの高慢と貪欲のために、神から離れて、邪悪な者となっている罪人をなお愛しておられるのです。
 それゆえ罪人が悔い改めて神に立ち帰るとき、神の喜びは何にも勝って大きいのです。その喜びをこの譬え話は示しています。
 実に、神の国の福音の喜びは、罪人が主イエスを通して、神のもとに立ち帰るときに、神様が喜ばれる大いなる喜びであります。

 主イエスはルカによる福音書15章10節で、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるならば、神の天使たちの間に喜びがある」と仰せられました。
 実に、神の前にある喜びは、放蕩息子が帰還したときに父親が「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉がよく表しています。
 死んでいたというのは、精神的な霊的な意味で死んでいたのですが、今や神の前で真に生きるようになったのです。また神から離れて失われていたのですが、神の御許に立ち帰って、神に見いだされ、神との人格的な交わりに入ったのです。このことが天にある大いなる喜びの理由です。

       
(3)善を行う力としての愛
 最後に神の絶対愛は罪人に対する赦しと新しい命を与える霊的力です。神の愛は決して安価な愛ではありません。それは人間を罪と罪の束縛から解放する愛です。御子イエスが十字架の死と復活において、ご自身を罪人に与えられた贖罪愛です。神の愛は人間が神の御心を知り、自ら進んで喜んで神の命令を実行することができるようにする御子の内に満ち溢れている「霊的力」です。  

 神の御子である主イエス・キリストがわたしたちの罪を贖うために、わたしたちの罪とその結果である死と恥と虚無を自ら担われました。わたしたちのために、わたしたちに代わって、神から罪の裁きを受け、死の極みまで神の御心に従われたことにより、わたしたちの罪が神の御前で取り去られました。
 同時にわたしたちのため、わたしたちが受けるべき義と永遠の命とが主イエスの中で実現しました。死人の中から復活された主イエスを通して主イエスを信じる者はその義と霊的生命を受けるのです。
 従いまして、人間に対する神の絶対愛は、御子の尊い犠牲の中に働いています。それゆえ主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、わたしたちの中で働いているのです。

 この神の愛によって、わたしたちは譬え話の放蕩息子のように、神に立ち帰り、父なる神の御心を知り、御前にあることを喜び、神の御心を喜んで行う者となります。
 主イエスを信じるとき、主イエスの言葉がわたしたちの心の中に働き、神の愛がわたしたちの行為の中に働きます。それゆえ、主イエスを信じると同時にわたしたちは兄弟姉妹に対して、隣人に対して、他の人々に対して、愛し始めます。なぜならば、信仰と愛とは同時に始まり、常に不可分離だからです。

 それゆえ、わたしたちは信仰と愛を抱いて神のもとに立ち帰り、キリストの体である信仰共同体、すなわち教会の中へ、そして隣人の中へ、社会の仕事と任務の中へ立ち返り、主イエス・キリストに従う日々を送るのです。
 福音の喜び、天にある喜びとは、罪人が主イエスによって、日々赦されて神の愛を実践することです。
 そして、神の愛を実践する人は、それを自分の功績として誇り、自分の救いの保証とするのでなく、右の手のしたことを左の手に知らせることなく(マタイによる福音書6:3)、すべては神がご存知であることを感謝し、神を賛美するのです。


三芳教会 中山弘隆牧師
(なかやま ひろたか)





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