2020年6月のみことば

聖霊は、別の弁護者

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
                  (ヨハネによる福音書14章15~20節)


 5月31日は、今年のペンテコステです。
 イエス様は昇天の前に、弟子たちに、「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1章4~5節)と命じられました。弟子たちは、心を合わせて熱心に祈りました。120人ほどの人々が一つになっていました。五旬祭の日が来て、彼らの集まっているところに聖霊が降り、彼らは皆、聖霊に満たされました。こうして、教会の時代、聖霊の時代が始まりました。

 青少年の時、私の通った教会の学生会は、毎年夏休み中に、信仰修練のため指導者の引率でソウル近郊の山にある祈禱院によく行きました。学生の中には、異言で祈る人も、祈りの中、入神して横たわる人もいました。このような経験を通じて、聖霊は、信者に神秘体験をもたらす霊であると理解しました。青年になって、信者の内におられる聖霊について教えられた後、私自身の内におられる聖霊を認識したいと思い、熱心に求めた時期がありました。私の内におられる霊だから、自分の中を綿密に調べたら、その存在がつかめるのではないかと思ったのです。しかし、どうしても聖霊の臨在を感じたり、認識の対象として掴んだりすることができなくて、聖霊は理解しがたい存在だと思いました。

 イエス様が聖霊について、ニコデモに教えられたように、聖霊は風のようで、風そのものは目に見えないが、風があることは、木の枝が揺れることによって、よく分かる。聖霊によって生まれた人も同じであると、イエスは言われました。その通りでした。聖霊自体を直接感じることはできなくても、聖霊の存在は、否定できなく確かなものでした。

 自分の内面に集中して、魂の奥底におられる聖霊に祈ります。心の王座に座っておられる主イエスの霊、聖霊にひれ伏し、主をあがめます。

1.聖霊は、別の弁護者
 律法は、人の外から支配し、人を規制します。
 聖霊は心に記された律法として、人の内面から規制します。(エレミヤ書31章:33節)聖霊の実を結ばせ、人間の肉的な本性を克服させます。聖霊によって、人の性質が変わっていくように見えるが、人の本性は変わるものではなく、いつもそこにあります。人はただ、肉に対して死んで、肉の縛りから自由になります。聖霊によって生きることは、無我夢中の状態ではありません。自分の意識、意志が依然とあります。私に属するこれらとは別に、聖霊が私の内側におられることを信じます。

 弟子たちとの最後の晩餐のとき、イエス様は、聖霊についていろいろ教えられました。
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」ヨハネによる福音書 14章16~17節

 聖霊は、主イエスの霊、別の弁護者として、神から遣わされて、信じる者の内に留まられます。主イエスは、聖霊を別の弁護者として、紹介しておられます。元の弁護者があると言う意味です。イエス様ご自身です。昇天されたイエスは、天の父の右の座に着かれて、父の前で、私たちを弁護してくださいます。(ローマの信徒への手紙8章:34節)イエス様は有能な弁護者ですので、裁判官であられる父の前で、被告である私をかばってくださいます。弁護者イエスは、裁判官にご自分の血潮を提示して、被告の無罪が正当であることを主張されます。罪人である私のため、主が代わりに流された血潮です。

 裁判官は、無罪を宣告されます。地上で、私の内におられる聖霊、別の弁護者が、罪を犯して罪責と後悔に苦しんでいる私に、次のことを囁いてくださいます。(ローマの信徒への手紙8章26節)「イエスキリストの血潮が、あなたの罪のため流されたので、あなたの罪が赦された。あなたは、自由だ」と。このように、天の神殿には、主イエスキリストが、神の前で、私たちのため弁護して下さり、地上では、聖霊が、私たちの傍で、悪魔の非難と告訴に対して、私のため弁護してくださいます。

 聖霊は、イエスの教えられたことを私に思い起こして下さいます。私たちを導き、教えられます。肉体として来られたイエスキリストが復活し、昇天された後、主イエスは、聖霊を通して、今、ここに、私のそばに、私の内におられます。そして、聖霊は、別のことを語るのではなく、主イエスキリストのことを証言し、イエスキリストに栄光を与えます。

 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
ヨハネによる福音書 16章1~14節

2.聖霊に導かれる人生の幸せ
 宝なるキリストが、土の器である私の内におられます。(コリントの信徒への手紙二4章7節)
 天の平和、喜び、安心感、義が溢れます。私は、神様の恵み豊かな世界に留まり、幸せが満ちます。 最初から、神の創造された被造物の中に、いにしえから神の恵みが豊かなに満ちていました。神は、善人にも悪人にも太陽を照らし、雨を降らしてくださいます。時が満ちて、イエスキリストの福音を通して神の憐みと神の義が、明確にお示しになりました。この二つの事実に、私たち人間に向かう神の限りないご愛と恵みと真理があります。神に感謝し、神を賛美せざるを得ないのです。これが聖書を通して、私たちが悟り、知ったこと。神に従う人がいただく幸せです。

 ダビデは、詩編16編で、インマヌエルの祝福を喜び、歌っています。(詩編 16篇8~9節)
 「わたしは絶えず主に相対しています。 主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。 わたしの心は喜び、魂は躍ります。 からだは安心して憩います。」

 聖霊が私たちの内におられるのは、このような祝福をくださるためです。父なる神は、イエスキリストによる贖いの業を通して、インマヌエルの祝福、聖霊の臨在の祝福を、信じる人々誰にも、与えてくださると約束されました。
 五旬祭、聖霊の降臨の際、ペトロと使徒たちは、聖霊に満たされ、エルサレムの人々に、十字架で殺されたイエスが、キリストであり、復活されたことを証言しました。これを聞いて、人々は大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。 そのとき、ペトロは彼らに言いました。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 使徒言行録 2章37~39節
 この約束は、時代を越えて、地域を越えて、主が招いてくださる者ならだれにでも有効な神の約束なのです。
 聖霊に満たされ、聖霊に導かれる人生は幸いです。

 パウロが、エフェソに行った時、信じているのにも、聖霊について知らない弟子たちに出会いました。 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。 この人たちは、皆で十二人ほどであった。 使徒言行録 19章2~7節

 今の時代に生きる私たちキリスト者はどうでしょうか。皆さんはどうでしょうか。
 主イエスの名によって洗礼を授けられた時、賜物として聖霊を受けたのでしょうか。私は、そう信じます。神の約束だからです。それでは、聖霊が皆さんの内におられることによって、どのような変化が起こったのでしょうか。
 聖霊は、信者の生活に変化をもたらします。信者は、聖霊による実を結びます。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤの信徒への手紙 5章2~23節

3.信者の生き方、決断
 聖霊の実を結ぶためには、私たちが聖霊の導きに従わなければなりません。
 「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」 ローマの信徒への手紙 8章5~9節

 聖霊の導きに従うためには、意識的な集中が要ります。常に、聖霊に聞き従うため、アンテナを立て、神の声を捉えるため周波数を合わせます。このような状態を、一日中保つのです。常に心の中で祈っていることです。私たちはこの努力によって、疲れるのではなく、むしろ主イエスキリストの命で溢れることになります。主日礼拝の時だけではなく、平日のすべての生活の中で、聖霊に聞き従うことによって、平和の中で生きるようになります。

 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節
 信仰生活は、絶えず祈る生活です。聖霊に満たされ、常に聖霊に聞き従う生活です。 また、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」ローマの信徒への手紙 14章17節

 聖霊によって与えられる、神の国の生活を妨げるのは、肉の思いです。「古い自分」と言われるものです。これらは、いつも神に敵対します。(ローマの信徒への手紙8章7節)
 もし、聖霊によって与えられる義と平和と喜びが、なかったとすれば、自分を顧みてください。私は、肉の思いに満ちて生きているのではないか。神は、賜物として聖霊を与えてくださいました。聖霊が、このように近いところに、私たちの内におられるのにも拘らず、聖霊を無視し、まるで、何もなかったように生きるのでしたら、これほど、悲しいことがありましょうか。

 その故、主イエスは、弟子たちに断固に言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書 16章24~25節)自分を捨てることこそ、命を得る道です。肉の思いを捨てて、聖霊の思いに従うことが命と平和です。

 使徒パウロは、主の言葉に従って、自分はキリストと共に死んだと言いました。
 「…わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」ガラテヤの信徒への手紙 2章19~20節

 聖霊が降りました。預言者たちが予告した新しい時代が始まりました。使徒ペトロが、聖霊による新しい時代の到来を証言します。
 「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。 終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。 すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、 下では、地に徴を示そう。 血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、 太陽は暗くなり、 月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』使徒言行録 2章16~21節
 私たちは、終わりの時のこの偉大な時代を生きているのです。


東松山教会 崔 長壽牧師
(ちぇ じゃんす)





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