2020年9月のみことば |
そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ人たちは大いに論じ合いながら帰って行った。パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。 (使徒言行録28章23~31節) |
[1] 「わたしたちの教会は、まるで蛸壺状態です」 ある教会の信徒の方が、ご自分たちの属する教会を客観視して、こうおしゃいました。いわく、自分たちの教会さえ、そこそこ、うまくいっていれば、それで満足してしまっている。それなりに教会には問題があり、苦労もあるが、経済的にも人数的にもそこそこ安定していて、いわゆる教会消滅の危機、ということばとは無縁だ。 しかし、それでいいのか?という自問だったのです。教会は自分のところさえよければ、それでいいのか? 隣の教会がどんな困難を抱えているか、なんて全く無関心。あるいは、日本全体の教会がどういう状況にあるか、世界の教会がどういう動きをしているか、なんて全く関係ない。「私たちの教会が安泰なら、それで結構。だって、私たちの教会ですもの。牧師先生は、私たちの牧会さえ、ちゃんとしてくださればそれでよい。」…これが教会員の大方の感覚。しかし、これではまるで、蛸壺にどっぷりつかって、居心地の良さに大海へでようとしない「蛸のようだ」、というのです。加えて 「そのうち、教会員は蛸壺から骨壺へ直行して、人生をおえてしまう」 とのこと。しゃれたジョークを交えながら、しかし、真剣にご自分の属する教会の現実を分析しておられる貴重な信徒の一言でした。 これは他人事ではないのです。 日本の教会は、そもそも、海を越えてやってきた宣教師たちが運んできてくれた「福音」によってたてられました。そして、教会はその福音の「器」でもあります。 それが、1549年以降のフランシスコ・ザビエルによる日本における宣教活動だったり、1853年黒船来航(江戸時代末期~明治時代)以来の宣教師たちの来日ラッシュだったり、1945年敗戦後の第二次キリスト教ブームだったり、しますが、とにかく、島国日本の風土の中になかった「キリストの福音」が、海をこえてやってきてくれたおかげで、日本にもキリスト教が伝わり、教会がたちました。神さまに用いられて「福音」を伝える人がいて、伝わってきたのです。そしてその宣教師たちを送り出したのも、「教会」です。 …となると、そもそもが、教会が「蛸壺状態」だったら、「福音」は世界に伝わらなかったし、日本にも伝わらなかったのは、火を見るより明らかなことです。そういう恩恵に預かっているのに、それを忘れて、蛸壺に収まっていることに満足しているのは、日本流にいえば、「恩知らず」ということになりましょうか…しばしば耳にする言葉は「ここは私(または私たち)の教会なんだから」という言葉です。「教会」は「私のもの?(私たちのもの?)」でしょうか?…もう一度、福音がここまで(=私のところまで、私達のところまで)伝わってきたことの経緯を、聖書から確かめて、「教会」とは何かを振り返ってみましょう。 [2] *使徒言行録 私達は、使徒言行録をずっと読み続けてきまして、今日が、その最後のところになります。 ペンテコステ(聖霊降臨日)の出来事以来、イエスをキリストと信じて、「イエスの弟子として生きる=クリスチャンとして生きる」というキリスト教信者たちが増えていったことを、ずっと確認してきました。「イエスの弟子として生きる=クリスチャンとして生きる」とは、自分中心の生き方(=自分ファースト)から、神に心を向けて生きる生き方(神さまファースト)へ180度転換する、180度変わる、ということを意味します。自分の価値観を基準にするのではなく、神が何を求めておられるか、ということを基準に考える生き方です。 しかし、これは、いつも祈って尋ね求めていないと、すぐ、落とし穴に陥ります。迷路にはまります。主イエス・キリストを信じている、神の救いを信じている、といいながら、いつのまにか自分が基準になってしまっている、自分の価値観でしかみていない…そういう落とし穴があちこちに仕掛けられているので、生き方が180度変えられた、と思っていても、そうは変わっていないことがあります。「蛸壺状態」に陥っていることは、よく起こります。だからこそ、いつも神の導き、主イエス・キリストの十字架の贖い、聖霊の助けを祈り求めていくことが必要です。 使徒言行録は、初期のキリスト者たちが、そういう落とし穴に陥らないよう、常に聖霊の導きを尋ね求めて歩んでいった「言行録」なのです。 そのモデルの一人が、伝道者パウロです。 何度も触れてきましたが、パウロは、キリスト者を迫害する側から、キリストの福音を宣べ伝える側へと、180度の転換を経験した人物です。人生の方向が、180度、変えられた人物です。 それまで正しい、と思っていたことが、実は「自分の正しさ」であって、「神の正しさ」とは真逆な生き方だったことを知らされて、悔い改め(方向転換)が起こされた人物です。その方向転換(=悔い改め)は、復活のイエス・キリストとの出会いによって起こりました。復活のイエス・キリストに名前を呼んで頂き、語りかけられて、「鱗が落ちる」という体験をしました。自分の努力で勝ち取った転換ではなく、外から与えられた「転換」でした。 パウロは、この体験から、「あの十字架におかかりなり、復活したイエスこそ、キリスト。メシア。罪からの救い主」と大胆に証ししました。すると、その話を聞いた人々が次ぎ次ぎとクリスチャンになっていったのです。「主イエスの弟子として生きる=クリスチャンとして生きる」、自分ファーストの生き方(自分の価値観によって生きる生き方、自分中心の生き方)から、神さまファーストの生き方(神の価値観を追い求める生き方、尋ね求める生き方)に変えられていったのです。神さまファーストの生き方は、具体的には、「神を愛し、隣人を愛する」生き方です。生き方を変えられていった人々の日々の生活の有り様は、この「神を愛し、隣人を愛する」生き方をよく表わしておりました。生活そのものが証の生活でした。絵にかいた餅、ではなかったのです。だから、人々は共感して、後に続いていったのです。パウロの生き様は、その方向転換をよく表わしており、人々にはそれが伝わったのです。このパウロを用いたのは、主なる神、導いたのは聖霊でした。 *パウロ、ローマへ さて、本日の箇所に入ります。 伝道者パウロは、今や、ローマにおります。当時の人々にとっては、最大の都市、最強の都市、世界の中心と思える都市、ローマです。パウロは、そこで伝道することは願ってもないことだったのです。すでに、ローマに教会があったことを使徒言行録はほのめかします。パウロの一行が、ローマに到着した時のことです。 使徒28:15 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイファルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロはかられを見て、神に感謝し、勇気づけられた。 この「兄弟たち」という言葉は、キリスト者のことです。ですので、ローマ教会の信徒たちが、パウロがローマに到着したことを伝え聞いて、かけつけてきたことを報告しています。ローマにすでに教会があったことは、他の箇所からも推測されています。たとえば、パウロが「ローマの信徒への手紙」をコリント滞在中(紀元55/56年ころ)に執筆している、ということからも、ローマの教会の存在が明らかです。 しかし、使徒言行録では、不思議なことに、それ以後、パウロがローマ滞在中には「ローマ教会」のことは言及されていません。おそらく著者ルカが、「異邦人伝道」ということに焦点をあてて執筆したからだろう、と推測されています。 *囚人として ところで、この最大の都市ローマに到着したパウロですが、実は、彼は、囚人として護送されてきたのでした。 それは、使徒26:19-25や本日の箇所の直前28:17-20で、明らかです。 26章でのいきさつと、パウロ自身の説明には多少のずれはありますが、大筋は、以下のようないきさつです。 つまり、パウロは何も法を犯すようなことはしていませんでしたが、同胞のユダヤ教当局の人々の偽証によって、「この男は、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」=危険人物としてローマ総督に訴えられました(使徒24:5以下)。その際、パウロはもちろん、無実を主張しましたが、その上で、ローマの市民権をもつのだから、裁かれるなら「皇帝に上訴します」(使徒25:11)と、自らローマ皇帝のもとでの裁判を志願したのでした。この際、一貫しているのは、ローマ総督をはじめ、ローマ当局側は、パウロがローマ当局に何か危害を加えるような人物だとは認識していない、という点です。ユダヤ人側が、危険人物と訴えているが、そういう類のことに該当するような言動はない、と判断しているのです。ただ、ユダヤ教当局がうるさくいうものだから、無視はできなかった、というスタンスです。 ですから、囚人といっても、 使徒28:30 自費で借りた家に丸二年住む ということが許され、訪問客を自由に迎えることができたのでした。いわゆる軟禁状態だったのです。 *ユダヤ人との決別(28:23-28)→異邦人伝道へ このローマ滞在中、パウロは2度、ユダヤ人と会合をしています。 1回目は「ユダヤ人のおもだった人々(第一人者たち)」(28:17)をパウロ自らが招いています。 2回目は、「大勢のユダヤ人たち」(28:23)が、自分たちで日を決めてパウロのもとにやってきています。 そこで、パウロが語ったことは、第1回目は、自分に対する告発を弁明し(=訴えられているような策略などあるはずがない、と無実を主張)、今までの経緯を話しています。 2回目は、神の国の福音、主イエスについての証です。 28:23 「神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用してイエスについて説得」 しました。しかし、これを聞いたユダヤ人の反応は、二つでした。 28:24 ある者はパウロのいうことを受け入れたが、他の者は信じようとしなかった。 同じ内容を聞いても、受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる…それが、現実です。 その結果、パウロは、ある方向性を宣言します。それが28:25-28の説教です。 旧約聖書のイザヤ6:9-10を引用して、すでに預言されていることを語ります。 28:26-27 「~あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。~(だから)わたしは彼らをいやさない。」 神の国の福音を語っても、このことを受け入れない人(同胞のユダヤ人)たちがいることは、す でに神が預言するところである、という指摘です。 そうであれば、 28:28 「~この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」 と、異邦人伝道を宣言します。これが、使徒言行録の伝えたかったことの一つです。今や、神 の国の福音は異邦人に向けられている!と。 …そして、事実、このことは今日、ここで福音を聞く私達にまで届いております。 [3] *使徒言行録は続く… 使徒言行録の最後の記述は以下の通りです。 28:30-31 パウロは、自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて、教え続けた。 このあと、パウロがどうなったかは、使徒言行録は記しておりません。偉大な伝道者パウロの偉人物語ではないからです。パウロの生涯の終わりがないということは、主人公はパウロや使徒たちではない、ということです。主人公は「神」、語られる内容は「神の国=主イエス・キリストについて」、それを導いてきたのは「聖霊」…それが、この終わりの記述にはっきりと示されていることです。 しかも、ギリシャ語の「宣べ伝える(ケリューソー)」と「教える(ディダスコー)」という言葉は、どちらも、現在形で終わっています。英訳(New American Standard Bible)では「preaching」 「teaching」と現在進行形で訳されています。 また、ギリシャ語本文の語順でいうと、最後の単語「妨げられず」で終わっています。これをある神学者は、こう説明しています。 「使徒言行録の目的は、神の器であるパウロの最後を描くことではなく、 『あなたがたは、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、地の果てまで、わたしの証人となるであろう』(使徒1:8)という復活の主の宣教命令がパウロにおいて成就した、という神の救済史を描くことだった」 By 真山光彌 神の国の福音=主イエス・キリストの福音は、現在進行形で今なお、妨げられずに「宣べ伝えられ」「教えられ」続けている…それが、使徒言行録の語るところです。 つまり、言行録は「続く(to be continued)」なのです。「終わり(the end)」ではないのです。 …ということは、今日の私達にまで、福音が届いている、ということは、この続きは、私達の手にバトンが渡されている、ということです。「神の愛を知って、神を愛し、隣人を愛する」行き方へと変えられた私達です。そのバトンを次の人にわたすべく、召されているのです。 [4] 蛸壺に安住しているのでは、このバトンを渡せません。この福音に生かされていることを本当に心から喜ぶなら、蛸壺なんかに収まってはいらないはずです。 教会は、私達一人一人を毎週、この世へと、大海へと送り出しています。 福音を携えて、さあ、大海へとでていきましょう。 |
安行教会 田中かおる牧師 (たなか かおる) |
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