2020年12月のみことば


与えられた衣と土

 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
                  (創世記3章20〜24節)
 

 こどもの教会で、Tさんが、創世記3章1〜7節のお話をしてくれました。Tさんは、「人間が神さまとの約束を破る最初のお話です」と教えてくました。このお話は前の2章から始まっていますが、約束は3つありました。@人は神の園を守る働き、神さまのお手伝いをする(15節)、A園のすべての木から取って食べてよい(16節)、Bただし、「善悪の木」という木から食べてはならない(17節)です。今もあるでしょう。きのこはおいしいが、毒きのこは食べてはならないって。だって、食べると苦しみ、死んじゃうことだってあるのです。

 聖書の二人は、善悪の木から、最初女が実をとって食べました。いかにも、おいしそうだったので…。次に、男も食べました。すると、それまでは全然気にならなかったのですが、二人が裸でいることに気がつきました。恥ずかしく思ったので、いちじくの葉っぱで腰をおおいました。不思議ですね、赤ちゃんなら裸でいても恥ずかしくないのに…。そうなのです、知る・わかるということは、いろんなことがわかるということもありますが、知りたくない・見たくない・困ったことも起こってしまう(道を開く)ということがあります。

 神さまが「どこにいるの?」と探しにきました。二人は約束を破ったので怒られると思ったのか、隠れてしまいます。でもその後で、神さまに会った時、(二人が裸でいるのを知っていたので)食べてはならないという木から食べたことがばれてしまいます。そうなのです。この時なのです。本来なら、「約束を破って、ごめんなさい」と謝れば…と想います。でも、聖書の二人は謝らないのです。そればかりか、いろんな他の言い訳をします。

 男は「女が取ってくれたので…」と言い、女は「蛇がだましたので…」と言います。二人は「私が約束を破りました、ごめんなさい」と認め謝りません。もしかしたら、困ったことになったので、自分で何とかしようと思ってこう考えたのかもしれません。神さまと一緒にいるのをやめて、この神さまの園を出て行けば、気分も晴れてもっと楽しいこと、もっと素晴らしい世界があるかもしれない、と。このように、二人が自分たちだけで歩もうとすると、神さまは「その先には(このような)困ったことに出会うよ」とお話をしました。それが今日の聖書の前(3章13〜19節)に出てきます。

 余談ですが、私は創世記2〜3章のお話を聞き伝える時、たくさんの不思議を感じいつもドキドキします。今日はそのドキドキについてお話しましょう。それは、他の人があまり言わないので、もしかしたら私の考えていることが間違っているのかなって、思うからです。それは二つあります。先ず、神の園は全くの安全ではなく、善悪の木のような「危機」があったこと。そしてもう一つは、命あるものはいつか死を迎えた(であろう)ということです。でも神の園に危機があっても、神に従う(仕える)なら全ては大丈夫だったのです。

 いよいよ、二人が、園を出る(出発する)時が来ました。今日のお話です。
 この時神さまは、皮の衣(21節)と〔園から取られた〕土(23節)を、二人に与えました。私は、この「土」を、広い意味で考え受けとめています。あるインドの女性・先生は、「私たちは、土と水、光そして虫たち(生き物)がいれば、大地からずっと命の糧・食べ物を与えられてきた」と語っています。そういえば、イエスさまもこういうふうに語っておられます。「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイによる福音書4章45節)。そういう視点から、今日の創世記を読むと、二人の出発に際し、どこに行っても着るものや食べるものに困らないように、しるしとして大事な「衣」と「土」を備えてくださったのだと想います。

 そういう感じで読むと、今日の聖書はさらに不思議に響いてきます。「土」を「耕す」(23節、2章5節も)の「耕す」の聖書の元の言葉には、「働く・仕える」という意味があります。さらに(24節の「追放」するは強い言葉ですが)23節の「追い出す」も、聖書の元の言葉では「遣わす」という意味があります。

 先週、こどもの教会で、Nさんが「バベルの塔」の聖書(創世記11章)について、お話してくれました。人間が集まるといろんなことが起こってきたので、「主(神)は彼らを全地に散らされた」(創世記11章8節)。それは、人間の創造の時に語られた「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1章28節)の、神さまの思いとつながっていますと、お話してくれました。それと同じように、今日の聖書のお話も、〔どこに行っても・どこに居ても〕大地(世界)に仕えるよう、二人を見送った(遣わされた)というふうにも聞こえてきます。

 今年は新型コロナの拡大があって、私たちも、世界の人々も、生きづらさを抱えて歩んできました。また、人間が困ったことを自ら引き寄せて、苦しんでいる人たちもたくさんいます。教会は共に集まることを大切にしてきました。しかしながら、今年は、生かされている(遣わされた)各々の場所で、クリスマスや新年を迎える方が多いと想います。

 クリスマスは、「神は我々と共におられる」(マタイによる福音書1章23節)の意味を示してくださる、イエス様の誕生を記念してお祝いします。今年の冬、あなたも、自分ができる様々な方法で、このクリスマスの「良き知らせ・グッドニュース」に触れてみませんか。そして、お一人おひとりが、希望を確かめ、新しい歩みを始めることができますようにと、祈っています。

所沢みくに教会  加藤久幸牧師
(かとう ひさゆき)







今月のみことば              H O M E