2021年1月のみことば |
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。 谷はすべて埋められ、 山と丘はみな低くされる。 曲がった道はまっすぐに、 でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (ルカによる福音書3章1〜22節) |
皆さんは、イエス様が受けられた洗礼について、どういう光景を思い描くでしょうか? もしかしたら、私達が洗礼を受けた時のように、清らかな水が流れていて、その清流にバプテスマのヨハネと共に身を沈めてゆく…そんなイメージを持っているかも知れません。でも、どうやら違うようなんです。私はイスラエルにもヨルダンにも行った事がないので、経験としては分からないのですが、行ったことがある人に話しを聞くと、誰もが言うのです。「思っていたのと違った。小さくて、汚かった」。確かにヨルダン川の写真を見ると、聖学院教会の前を流れている「鴨川」そっくりな感じです。水深も浅く、川幅も狭く、水は濁って汚い…。 バプテスマのヨハネがそんな所で洗礼を授けていたのは、彼の世界に対する挑戦だったのかも知れません。彼の語り口は鮮烈です。群集が来ても、徴税人が来ても、兵士が来ても、はたまたファリサイ派やサドカイ派といった宗教者のエリートがやって来ても、その語り口は変わりません。「お前達、自分が罪人だって認められるのか? この列の最後に並んで、泥水かぶれるのか?」そんな調子でまくし立てるのです。その洗礼の列の最後尾に、ナザレから120km歩いて来られたイエス様が並ばれました。そしてとうとう、イエス様の番がやって来ました。ヨハネはそれを辞退しようとします。「イエス様、私こそがあなたから泥水をかぶせられないといけない存在なのですからやめて下さい」。でもイエス様は、言われます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)。 一体どうして、イエス様は、そのような荒れ野でヨハネから洗礼を受けたのでしょうか? 「正しいことをすべて行う」とは、どういう事なのでしょうか? 実はイエス様は、泥をかぶって下さったのです。神様の前に犯した私達の罪を、全て肩代わりするために、キリストは、泥をかぶって下さったのです。心の中から神様を追い出して、自分が神様のようになって、世界を支配しようとしてしまう私達は、神様の裁きには耐えられません。誰もが「切り倒されて火に投げ込まれ」なければならない存在です。そんな私達の罪を全部引き受けて、十字架の道を進みゆかれようと、キリストが泥をかぶって下さったのです。 世界中の人々が、本当の神ではない皇帝を拝んで「神の子」と呼んでいた時代、偽りの「神の子」がこの世の支配者となって君臨していたその時代に、本当の「神の子」が、クリスマスの夜に天を離れて遙か遠い地上に降って、それだけでなく、洗礼の日に遥かな道のりを歩いて、罪人の列に並び、泥をかぶって下さったのです。キリストは、罪人でしかない私達と同じ場所に立って下さって、泥かぶって、あなたの罪全部引き受けるよ、って言って下さいます。キリストはさらに進み行かれて、十字架の低きにまで降って、あなたの罪全部肩代わりして死を引き受けるから、お前は生きるんだ、って言って下さるのです。 さらに聖書は語ります。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。世界の中心ローマから遥か遠く離れた辺境の地からさらに離れた荒れ野で、泥水にまみれたキリストに、天は開かれ、聖霊が降り、父なる神様は言われました。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。たとえ世界中の人々があなたを理解せず違う者を「神の子」と呼ぼうが、たとえあなたが世界の中心から遙かに離れ辺境の地の荒れ野を歩むとも、たとえあなたが最後尾を歩み泥水をかぶろうとも、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。キリストが洗礼を受けたその時、その場所で、天の声が響きわたったのです。 そして、そんな天の御声は、キリストに繋がっている私達の心にも、響き渡ります。キリストにつながっている『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神の子キリストに繋がってるなら、あなたは神の子。たとえ世界中の人々があなたを理解しなくても、たとえあなたが荒れ野のような人生を歩もうとも、たとえあなたが泥にまみれ罪にまみれ泥だけになっても、キリストにつながっているなら、いやキリストがあなたをつかんでいて下さるから、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。 神様は、聖霊を通して、私達に今日、そのように語っておられるのではないでしょうか。たとえ病いを得ても、年老いても、どんな困難が襲って来ようとも、あなたは私の子なんだ。神の子とされたあなたは大丈夫! そんな主の御言葉に強く強く支えられて、人生の旅路に歩み出しましょう。 |
聖学院教会 赤田直樹牧師 (あかた なおき) |
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