2021年2月のみことば

イエスさまの弟子として人々に遣わされる

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 
                (マタイによる福音書4章18~22節)

 イエスさまが活動される時が来ました。先月はヨハネから洗礼を受けられた場面でした。イエスさまはおよそ30歳になっていました。それからイエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時の事として場面は移ります。四人の漁師を弟子にする場面です。イエスさまの十二人の弟子の中で最初の弟子となるお話です。イエスさまはガリラヤ湖のほとりで、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として招きます。「わたしについて来なさい」というお言葉でした。彼らは「すぐに・・・従った」とあります。「すぐに」とはどのようなことか思いました。漁師として魚を取る仕事をしていた人たちです。家族も仕事仲間も関係する人たちもいたでしょう。すぐに従う動機や理由もここには書かれていません。何も書かれていないということに隠された意味があるのではないかと思います。

 この最初の弟子たちをお呼びになる場面は、イエスさまの招きに躊躇することなく、臆することなく従った弟子たちの潔さ(いさぎよさ)に感動して、私は今まで読んでいました。しかしよくよく読むと、どうも違うのではないかと感じたのです。この四人は私たちと同じ人間です。親もいて生活もあり、働くことで社会の責任といいますか、生活を守る人たちであったのです。漁師として舟という財産もありました。この四人は期待されていた人生があった、家族の中で期待の担い手・稼ぎ手であったのです。かけがえのない大切な一員であったことは間違いないのです。家庭においても地域においても大事な人なのです。

 「わたしについて来なさい」という言葉の招きはいったいどのようなものか、網を捨てて従う(20節)舟と父親を残して従う(22節)とはどのようなことか、家族を捨てる、家族を犠牲にすることなのだろうか。いろいろと考えました。自分自身の経験が少しだけ重なりもしました。イエスさまに出合ってイエスさまに従う、またついて行くというのは、この体このいのちをイエスさまに用いていただくことです。家族や仕事を捨てるというのではなく、このいのちは自分のものではないという経験をさせられているのではないかと思うのです。

 ペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネの四人は、自分のいのちと体はもはや自分たちのものではない、また家族だけのものではないという意味を悟ったのではないか。イエスさまと出会わなければ自分のいのちは自分のもの、自分と関係する人たちのものだった。しかしイエスさまと出会って「わたしについて来なさい」という御言葉には、見えない大きな力があった。見えないからこそ想像するのですが、イエスさまの力強い御手がぎゅーっと彼らの手と体を引っ張っていった。何ものにも勝る力強い御手が彼らを捕えたのではないでしょうか。あなたはわたしのものとされた、あなたがたは神さまのものだと、誰のものでもない、自分のものではない命と体の全てであることを悟ったのではないか。悟ったという言葉もおこがましいかもしれません。解らせていただいた、自分という者が誰のものでもなく、神さまからのものであることを知った時に起こった出来事が、「すぐに従った」ということではないでしょうか。

 先程、自分自身の事と重なったと申しましたが、自分が洗礼を受けた時、また神学校に行こうとしたときの事が思い出されました。私たちが住むこの日本においてキリスト教の信仰を持つと言うことは当たり前のことではありません。仏教や神道にまた八百万の神がおられるという日本の地に、家族親族にキリスト者が一人もいない中で信仰を持つということは簡単ではありません。わたしもそうでした。皆さんも様々な経験をされていることでしょう。キリスト教の信仰を持つことを反対されたかたも多いと思います。わたし自身のことで申し訳ない話ですが、神学校に行く、神さまに献身をすることを家族に話したところ、息子は「母親は死んだ。母親は死んだものだと思う。」と話したそうです。家族にとっては、息子にとっては棄てられたように感じたことだと思います。神さまを信じて生きる、イエスさまに従うと家族は壊れていくのかとも思いました。自分は家族を捨てたとも大事ではないとも考えたりはしませんでした。しかし現実には、残された家族はそのように思うのだと思い知らされました。そのような家庭があることを、御言葉を通して、今朝の御言葉を通して思い起こすことができたのです。

 イエスさまに招かれた人たち、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていた人たちは「わたしについて来なさい」とイエスさまはおっしゃった。その力強いイエスさまの御手にぐいーっと引っ張られていった、しっかりと掴んでくださったのです。彼ら四人は自ら従ったかのように書かれているますが、本当のところはイエスさまに捕らえられたのです。漁師である彼らからしますと、神さまの網に捕えられた人間という魚であるようにも思います。「あなたは誰のものでもない、わたしのものなんですよ」ということなのです。

 捕らえられたのであって従ったのではない。行動の結果が従ったであるだけで、イエスさまの御手にしっかりと捕らわれたのです。そして「人間をとる漁師にしよう」と言われます。イエスさまは捕えるだけではないのです。捕えた後、改めて人々のもとへ遣わされるのです。イエスさまに捕らえられてから、人々のもとへ、家族のもとへと遣わされるのです。大切な家族のもとへ、大切な人々のもとに派遣されるのです。人間を生かすもの、生き生きとした人生を送らせるためにイエスさまから遣わされるのです。イエスさまはしっかりと掴(つか)んでいてくださっている。家族を生かすものへと、人々を救うのもへとして遣わしてくださっているのです。先ほどのわたしの息子ですが、年数が経つごとに死んだ母から生きている母に少しずつ変化していったようです。家族の破れがイエスさまによってつくろわれ、新たにされているのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とは、イエスさまの声を聞くすべての人への呼びかけです。あなたへの呼びかけです。神の招きと派遣は人間の業ではない、神さまがしてくださった恵みの業なのです。それはいのちの源である神さまが、人間を豊かな人生へと導いておられるのです。

あなたはイエスさまの御言葉に対して、どのような立場をとられますか。
 埼大通り教会 稲益久仁子伝道師
(いなます くにこ)





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