2021年3月のみことば

主はわたしをうつろにして帰らせた

ナオミは言った。
「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出ていくときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。
なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。
主がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰ってきた。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。
            (ルツ記1章20節~22節)新共同訳聖書

 ユダヤのベツレヘムに住んでいたナオミという女性が飢饉に会い、食べるものを得るため、夫と息子二人と、モアブの野に移住します。でもそこで夫が死んでしまいます。その後息子二人はその地で結婚します。でもその息子たちも死んでしまいます。

 そこでナオミは自分の故郷に帰る決心をします。その故郷は、イエス様の生まれたベツレヘムです。ベツレヘムは穀倉地帯です。でも飢饉で作物がとれなくなったので、モアブに移住したのですが、1章6節にあるように、「主がその民をかえりみ、食べ物をお与えになったこと」を聞いて、ナオミは帰る決心をします。

 でも行くときは一緒だった夫も息子もいない帰還です。
 二人の息子の妻たちも、ナオミについてユダヤに来ようとしました。でも、ナオミは二人に自分の国で生きるように強く勧めます。異国人がユダヤで暮らす大変さをよく知っていたのだと思われます。でもそのうちの一人ルツは、ナオミにいくら言われてもナオミについて行くと言って聞かず、彼女についてきました。

わたしはあなたの行かれるところに行き、
お泊りになるところに泊まります。
あなたの民は私の民、あなたの神は私の神
あなたの亡くなるところでわたしも死に
そこに葬られたいのです。1章16節のルツの言葉です。

ナオミにはこのように共に生きたいと望んでくれる人が与えられていました。
でもナオミはベツレヘムに帰ったとき、このように言います。

 「主は私をうつろにして帰された。」1章21節です。「うつろ」何も持っていない状態をいいます。すべてを取り去られて、なにもかもなくなって、故郷に帰ってきたと嘆いています。

 たしかに夫も息子二人も失っています。土地もありますが、何年もほっておいた土地です。ナオミだけではどうしようもありません。
 
 しかし、なにもない、といっているナオミのそばには、遠い異国からついてきてくれたルツがいました。そして先ほどお読みした最後のところにあるように、ベツレヘムでは大麦の借り入れが始まるところだったのです。

 この大麦畑にルツは働きに行きます。異国の民、しかも夫をなくして姑についてきたルツは、決していつも人によくしてもらえるわけではありません。「よその畑でひどい目に遭わされる」という言葉が2章22節に出てきています。でもルツはこのように言います。「畑に行ってみます。だれか好意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」2章2節。落ち穂、それは収穫のとき落ちてしまった穂で、貧しいものや寄留者のために残しておくように、主は定めていました。レビ記19章9節にあります。

 ひどい目に遭わされるかもしれない。しかしだれか好意を示してくださる方がいるかもしれない。ルツの、神へのまっすぐな信頼がここで読み取れるように思います。もちろんそうしなければ、食べていけない二人でした。しかし姑の神を神としたルツは、まさに神の御翼のかげに身を寄せるように、異国での生活を始めます。

 そしてそのとおり、好意を示してくれる人に出会います。しかもそれは、ユダヤの掟で、家の男性がなくなったとき、家をたやさないように責任を負う、ナオミの夫の親戚の中の一人だったのです。彼の名はボアズ、裕福な人で、ナオミたちを養う力もありました。

 ボアズは、大麦畑で働くルツにこのように言います。「主人がなくなった後も、姑に尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか主があなたの行いを豊かに導いて下さるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分報いて下さるように。2章11節12節です。

 このようにルツがボアズと出会い、好意を得たことをナオミは知り、今まで恨んでいたナオミの心が主に向かって開いていきます。

 「どうか生きた人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(2章20節)という言葉が、ナオミの口から出てきます。自分は神に慈しんでもらえなかったと思っていたナオミが、自分もまた死んだ夫や息子たちにも、主は慈しみを惜しまなかったことに思いが至った瞬間です。

 全能者がわたしを不幸に落とされた、といい、主が自分を故郷にうつろに帰らせた、といっていたナオミが、このように感謝を込めて祈ります。

 でもいい時は主を賛美し、悪い時は主がこんなことをしたと主を恨むのは、まさにわたしたちです。

 主の御心がうつろっているわけではありません。主の御心は、ずっと変わらずわたしたちを愛して、わたしたちをご自分の御翼の陰で守ろうとしてくださっているのです。でもわたしたちには、なかなかそれがわかりません。それを私たちにお伝えになるために、イエス様がこの世にお生まれになりました。たくさんの預言者たちも送られましたが、全く耳を傾けないわたしたちに、神の御子が送られたのです。

 イエス様がこの世に生まれ、神の愛を語って下さいました。そして十字架にかかられて、自分の命をかけて、神の私たちへの変わらぬ愛を示し、わたしたちの罪をお赦しになりました。悔い改めて、罪赦されたことを信じて、神の愛の中に帰るように、わたしたちを招いておられます。

 神は変わらない。いつも私たちを愛してくださっています。ナオミはベツレヘムに帰って来た時は、うつろである。何も持っていない。すべては取り去られた、と思っていました。

 何も持っていない。うつろであることを、主は求めておられたのかもしれません。

 ほんとうにすっかりからっぽになると、私たちの心に神様の恵みが音を立てて流れる、という讃美歌があります。

  ♪ほんとうにすっかりからっぽになれば、不安さえもなくなり、つくりぬしのめぐみが、音をたててながれる♪(作曲 川上盾 作詞 荒瀬牧彦)

 わたしたちの心がうつろであれば、からっぽであれば、神の恵みがこれでもかと流れ込むのではないでしょうか。ルツ記では、ボアズがルツに、食べきれないほどのものや、たくさんの大麦を与えるシーンが出てきます。神の恵みが惜しみなく与えられていく、それにはそれを受け入れる、からっぽの心が必要です。

 しかも、帰国したナオミは、何も持たなかったわけではなかったのです。そばに死ぬまで一緒にいたいと言ってくれるルツがいました。そして大麦の借り入れの頃でした。ナオミは下を向いて、帰り道を歩いてきたのかもしれません。でも道端の畑には豊かに実った大麦の穂が空を指していました。

 もう恵みのきざしは与えられていたのです。心が悲しみと神様の恨みでいっぱいだと、恵みが見えません。食べ物がなくてここから去った故郷で、いま大麦が豊かに実っていました。
そしてその畑で、大きな恵みが与えられようとしていました。

 去年から本当にわたしたちは、考えもしなかった日々を過ごしています。今も不安の中にいます。終息の道筋は見えては、また隠れます。その間にどんどん貧しさ、生き苦しさが周りに広がってきています。希望が失われそうになります。
 そういう今、そばにルツがいるではないか、大麦が実っているではないか、と神がいわれている、ルツ記がそのように語りかけてきます。

 今わたしたちに与えられているものは何か。わたしたちに備えられている時はどのような時なのか。これから与えられようとしている神の恵みはどのようなものなのか。神を無心で見上げて、心を空にして恵みを頂くものにしていただきたいと思います。

 ルツはボアズと結婚して、子供が生まれます。オべドといいます。オべドはエッサイの父、エッサイはダビデの父です。救いの歴史が、あのイエス様がお生まれになったベツレヘムの馬小屋へと続いていきます。


越生教会 佐藤彰子伝道師
(さとう あきこ)





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