2021年5月のみことば

しるし

 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
            (マタイによる福音書12章38~42節)

 2021年度の歩みが始まりました。所沢みくに教会では、教会学校で進級式があり、子どもたちは学年が上がったことを喜んでいました。そして、元気に学校や保育園に行っているようです。教会学校にも来てくれています。所沢みくに教会では三密を避けるために、子どもを中心にした第一礼拝と大人の第二礼拝を主日礼拝として守っています。また、ご家庭で守っている方のために、ネット配信と説教原稿を送っています。

 コロナ禍で私たちが今まで経験したことのない形で教会生活を守っていますが、本当に子どもも含めて教会員一人ひとりが主に仕えることと共に生きることを大切にしていることを実感した一年でした。イースターを祝い、いろいろな形ではありますが、主日礼拝を守ることの大切さをこれからも大切にしていきたいと願っています。

 私たちに与えられた聖書箇所はマタイによる福音書12章38~42節です。
 この箇所は律法学者やファリサイ派の人々がイエスに「先生、しるしをみせてください」(38節)と言っている箇所です。そしてイエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがるが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしを与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。

 ニネべの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々はヨナの説教を聞いて、悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」(39~42節)と言っています。

 イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちがしるしを欲しがる」と言っていますが、律法学者やファリサイ派の人々の「しるしをみせてください」という箇所がよくあります。実際、16章でも律法学者とサドカイ派の人々が来て同じ質問をしています。また、十字架上の場面ですら、律法学者に限らず、通りかかった者たちが「神殿を打ちこわし、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言ってみたり、「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう…」と言って「しるし」を見たがります。

 律法学者やファリサイ派の人々は、イエスが既に片手のなえた人、目の見えず、口もきけない人をいやされた現場に居合わせ、奇跡行為を目撃しています。しかし、それは彼らにとっては、イエスがダビデの子であり、メシアであることの証拠にはならなかったのです。では、彼らはどのようなしるしを求めているのでしょうか。

 この箇所の「しるし」はギリシャ語で(セーメイオン)といい、単数形です。奇跡、奇跡的徴という意味です。つまり、この箇所では、イエスが神の子であることの確実な保証、不動の証拠としての明瞭な唯一のしるしを見せてほしいと律法学者やファリサイ派の人々は求めています。あたかも、イエスが伝道に入る前に悪魔の誘惑で得られたかもしれない力だったのかもしれません。悪魔はイエスに向かって、万人がメシアであると納得できるような、経済的力(石をパンに変える)、宗教的力(神殿を舞台に奇跡を起こす)、政治的力(この世の国々を支配する)をもって自己証明を示す神の子となれと囁きかけました。律法学者やファリサイ派の人々もまた、このようなことを求めていたのでしょうか。

 しかし、「しるし」を求めているのは聖書の中の人々だけでしょうか。今を生きている私たちも「しるし」を求めてはいないでしょうか。相手を陥れるために「しるし」要求したり、自分を守るための「しるし」を求めたり、自分が責任を負いたくないための「しるし」を求めるのです。しかし、そもそも「しるし」を求めるということは相手を信用していないことだと思います。つまり、信用していないからこそ「しるし」の提出を求めるのです。そこには信頼関係はないのです。

 ヨナの話が出てきますが、ヨナは大魚のおなかの中で三日三晩過ごし、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。聖書には書かれていますが、このことはヨナとイエスが三日三晩過ごされたということだけを想起するものだったのでしょうか。もしかしたらイエスもまた、ヨナがニネべの使命を拒んだように、十字架の道行きに対して喜んでその道を歩むというだけではなく、苦悩があったのではないでしょうか。だから、私はイエスが常に祈り、神との対話をしていたのではないかと思います。そして、自分を神に徹底的に委ね、安易なしるしを示さなかったのではないかと思います。

 パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」(Ⅰコリント1:22)と言っています。
 私たちは「イエスが復活されたというのは本当ですか。証拠はあるのですか」と問われることがあります。とかく人はしるしを求めます。特に目に見えないものについては、より一層のしるしを求めます。何とかして自分の理解できる範囲に収めたいと思うのです。「救い」という目に見えないものを手中に収めようとするのです。

 イエスは宣教を始める前、サタンからの誘惑のしるしを拒み、十字架の上ですら、徹底的に神が示されたしるしに従おうとされました。私たちは復活の喜びを経験しました。新しい道へと招き入れられた者であったとしても、この誘惑の「しるし」から自由ではありません。例えば、イエスの復活の出来事が今ある自分の生活の安定を脅かすものだと考えるならば、イエスを熱狂的に迎え入れた人々がイエスを放棄してしまうのと大差ないことになってしまします。

 それでは自分の欲望を叶えるだけのものとしての「しるし」です。だから、イエスはわかりやすいしるしを求めることそのものが間違っていると言われます。人間の考えに神の救いを当てはめるのではなく、救いそのものを受け止め、神に全てを委ねることが大切なのです。復活を経て、新しくされた者として、また、赦されて生かされている者として、主イエス・キリストに従う道へと招かれています。

 2021年度がはじまり一月が経ちました。始まったばかりです。お一人おひとりの健康が守られて歩むことができますように、5月の歩みが祝福されますように祈ります。


所沢みくに教会 加藤輝勢子牧師
(かとう きせこ)





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