2021年7月のみことば

もう泣くな

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
                 (ルカによる福音書7章11~17節)

 聖書が私たちに語る恵みや祝福は、主イエス・キリストとの出会いによって与えられます。聖書に対する知識や、イエス・キリストを知っているだけでは、豊かな命をいただくことはできません。新約聖書には4つの福音書が記されていて、主イエスとしっかりと出会えた人達のこと、また見たけれど、会話はしたが、真の意味で主イエスと出会うことが出来なかった人達のことも記されています。今回、ナインという町のやもめがどのように主イエスと出会ったかを心に留めたいと思います。

 主イエスは、ガリラヤ伝道の真っ最中で各地を巡り、多くの人達に神の言葉を語り、病を癒し、悪霊を追い出していました。11節を見ると弟子達も加わり一つの集団としての巡回がなされていたことが分かります。一行は、カリラヤ地方の南の外れ、サマリヤ地域との境にあるナインという町に向かっていました。

 さて、ナインの町では、辛い出来事が起きていました。それは、やもめの一人息子が、命を落としてしまったのです。町の大勢の人達がこのやもめに寄り添い、棺を担ぐ人達を先頭に、次に母親が進む葬儀の行列が町の門を、町の外にある墓地に向かって歩き始めていたのです。この時代、やもめの地位はとても低く、夫と息子がいなくなっては、その家とのつながりがなくなり、社会的に生きる場所を失う形になってしまうのでした。息子を失うことは、精神的にも社会的にも経済的にもやもめにとって大きな痛手となるのです。

 すると道の反対方向から、多くの人が塊となって、ナインの町の方にやって来るではありませんか。ナインの町の人達ではありません。どのような人達であろうかとよく見ると、今、ガリラヤ中、いやユダヤの地方一帯で、話題となっているお方、イエス様とその弟子達、さらにその教えをさらに聴きたいと願って付いて来た群衆達です。人間的に見れば偶然ですが、神の摂理のうちに、このやもめは、神の御子、主イエスと出会う機会が与えられることになったのです。

 福音書に記されている主イエス様との出会いの多くは、本人が願って主イエス様に近づいてきたケースが多いですが、主イエス様の方から積極的に近づき声を掛けて下さっている場合も少なくありません。また出会う時に関わっても、今回のように愛する人が死んでしまった後に会うことも幾つか記されています。死んでしまう前、まだ息子が生きている間に会うことができれば良かったのにと思わされるわけですが、主の恵みはその時にかなって豊かに示されるのです。

 主イエスは、直ぐにこの悲しい現実を察して、13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い」とルカは記しています。主が憐れに思うとは、どのような思いでしょうか。「かわいそうだ、恵んであげよう」という感情的なことでしょうか。その意味もあるでしょうが、さらに深いところで、この世を支配している罪によって引き起こされてきた死の現実、その現実に打ちのめされている母親の姿に、心が深く動かされたのです。まさに主は死を滅ぼすために、この世に来られ十字架へと向かわれるその使命との関わりの中で、主イエスさまの心に深い憐れみが湧き起こったのです。この憐れみの心は、私たちの全ての魂に注がれています。主の憐れみの外にいる人は一人もいません。

 この時、主イエスが、この母親に語るように導かれた言葉が、13節「「もう泣かなくてもよい」でした。何と慰めに満ちた、優しい語りかけでしょうか。主イエス様が、この悲しく辛い事態を、背負って下さることを示す言葉。「私が何とかするので、安心しなさい」というメッセージが、母親に届いたのではと思います。しかし、このやもめは、息子をよみがえられて下さるとまでは分からなかった、期待していなかったのではと思います。

 主イエスは、慰めの言葉を掛けられるだけで去られるお方ではありません。主は棺に近づき、手で触れられました。(14節) 律法の教えでは、死人に触れると汚れた者(けがれたもの)となってしまい、日常生活に支障が出るのですが、そのようなことを気にすることもなく、主イエスは、祈り心で、その棺に触れられたのでした。すると、担いでいた人達はとまったと記されています。棺がどのような形状のものか分かりませんが、地面に下ろし、主イエス様はその息子の姿を見ることができたのではと察します。

 多くの人達が、一体何が起きるのかと、主イエス様の行動を、息を止めながら見ていたことでしょう。その静寂の中に、主イエスは、権威ある言葉で、「若者よ、あなたに言う、おきなさい」と命じられました。その権威ある言葉に、多くの者達は、心の奥底まで電気が走る思いがしたことでしょう。すると、その青年は、ものを言い始め動きだし、起き上がってきたというのです。(15節) その場に居合わせた者たちは、あいた口がふさがらない程に、驚き、死人が生きかえさせる奇跡を目の当たりにしたのでした。

 群衆のある者は叫びました。「大預言者が我々の間に現れた」と。(16節) いにしえ、大預言者エリシャは、子どもが与えられなかった女性に赤ちゃんの誕生を予告しましたが、その子が大きくなった後に急死します。この若者をエリシャは生きかえらせる奇跡を行います。旧約聖書列王記下4章に記されています。この出来事が起きた場所は、シュネムという町で、実はナインの町の近くにあるのです。この預言者エリシャの出来事を思い返し、主イエス様を大預言者と呼んだと考えられます。

 しかし、主イエスは大預言者以上のお方、神がご計画されていた救い主であり、神の国の到来を実現させるお方、死を滅ぼし天的な命を私たちに与えて下さるお方です。町の人達はここまで主イエス様を理解し受け入れるところまでには至りませんでした。しかし、私たちにはこの恵みが、今明確に語られ届けられているのです。

 やもめは、死んでしまった息子を生き返らせていただきました。私たちにはそれ以上の恵みが、用意されています。それは、罪から解放され、永遠の命が与えられ、新しい天と地で主と共に生きるという恵みです。私たちが、この恵みをいただくために、主イエス様と出会う必要があります。主イエスさまは、既に天に戻られ私たちは肉眼で主を見ることができません。しかし、聖霊なる神様の助けにより、霊的に主イエス様と出会うことができます。

 黙示録3章20節にこのように記されています。
 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
  主イエスは、私たちの魂の辛い状況を知り憐れみを持って、「もう泣かなくてもよい」と語りかけつつ、私たちの心の扉を叩き、私たちに出会うために待っていて下さっています。私たちが願う前に、ナインのやもめと同じ様に、自分から積極的に求める前に、既に主イエス様は、私たちに近づき、心の戸を叩いて下さっています。まず、心を開き、主イエス様を迎えましょう。

 次に主イエス様の権威ある命の言葉をいただきましょう。創世記1章に記されているように、神が「光あれ」と言われると、光が創造されるのです。権威ある言葉は、その言葉の内容が実現するのです。聖書に記されている神の沢山言葉が、聖霊の導きの中に、私への、或いはあなたへの権威ある言葉として、届けられるのです。心を開き「主よ、私に命の言葉を下さい」と祈りつつ待つ内に、権威ある神言葉が、聖書を通して与えられます。

 クリスチャン生活の長い方々も、そうではない方々も、心の戸の外で待っていて下さる主イエス様に、心を開き、主の権威ある言葉をいただき、命をいただき、この世の馳場(はせば)を賛美しつつ進ませていただきましょう。これが私たちに与えられている福音の恵みの内実です。


志木教会 横山基生牧師
(よこやま もとお)





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