2021年8月のみことば |
一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた。人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」こうして、イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 (マルコによる福音書1章21~28節) |
私の友人に、キリスト教学校で聖書科の教師をしている人がいます。クリスチャンではない子どもたちに、受験科目とは一切関係のない授業を聞いてもらうのは大変みたいです。毎回知恵を搾って、どうにか子どもたちに興味をもってもらわないといけません。私自身、神学生の時に教育実習をさせていただいたことがあるので、少しだけ先生たちの苦労が分かります。 ほとんどの子どもたちにとって、授業で話される聖書の話はその学校に入学するまで一切触れたことの無いものです。自分とは何の関わりも見出せない、遠い遠い昔のお話。そのような話を聞かされる時、ある子どもたちは黒板や先生を見つめる代わりに受験科目の参考書を取り出して内職をはじめてしまいます。 真面目に授業を受けてくれる子どもたちは、ぼんやりと授業のお話を聞きつつノートを取ってくれるそうです。聖書科の授業にもテストはありますし、それは内申点にも関わるものなので、テストで問われることに答えるためにはノートを作らないといけません。たとえ授業で話していることがよく分からなくても、答えとなるキーワードを知っていれば点数は取れます。 そんな子どもたちはキリスト教に関する正しい答えを知ってはいるものの、例えば「祈り」や「礼拝」や「聖書」、そして「キリスト」という言葉に何が込められているのかを自分なりに考えて受け止めてくれているのかどうか。 採点の真っ只中だった私の友人は、そんな切ない想いを抱きつつテストの答案に丸をつけないといけませんでした。ですが、それでもそんな子どもたちは真面目で、ものわかりの良い子たちです。とりあえずこちらが答えて欲しいことを書いてくれるのですから。 ですが、ひと学年に数人はキリスト教で学んだことに違和感や躓きを感じたまま深く考え続けてくれる生徒さんがいるそうです。彼らは聖書科の授業で話された良く分からないお話に興味をもって、自分なりに悩みながらそれをこころの片隅に置いてくれます。そんな子どもたちにとって、聖書科で教えられたことはテストの答案の答えではなくて、彼らの人生に関わる「問い」となります。ある意味、そんな子どもたちは「分からずや」の子たちです。授業で聞いたことを「ああそうなんだ」と納得してくれていないのですから。ですが、そんな子どもが一人でも増えてくれたら良いなあと、先日友人と電話で話しながら思いました。 私たちは毎週の礼拝の中でイエス様のお話を聞いていますが、本来それは良く分からない話であるはずです。私たち人間にとって、神さまの言葉は私たちの理解を超えたものであるからです。聖霊の助けが与えられなければ、みことばを受け止めることはできないでしょう。 ですので、神さまから語りかけられた時に、「良く分からないし、自分とは関係ないな」と拒絶するのか、「ああ、そうなんだ」と分からないまま納得するのか、それとも「この話はどういうことなんだろう」と意味を尋ね求め続けるのか。それぞれの受け止め方というものがあると思います。 では、実際にイエス様の教えを聞いた人たちはどんな反応をしたのでしょう。 会堂でイエス様のお話を聞いた人たちはその教えに非常に驚きました。何かとてつもなく凄まじいことが語られている。今まで見聞きしたことがない、理解できない話に圧倒されています。 イエス様の話したことは、律法学者のように、旧約聖書に書かれていることや昔から言い伝えられていることの意味を解説するものではなかったからです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 「この世界は神さまが支配していて、間もなく神さまが私たちの世界に存在する悪を滅ぼすんだよ」 そんなイエス様の教えは旧約聖書を勉強すれば分かる事ではありませんでした。今までどんな指導者からも聞かなかった話をこの人は話している。だからこそ、イエス様の教えに耳を傾けていた人たちは思ったのです。「権威ある、新しい教えだ」と。 その教えは、今までの自分たちの生活をひっくり返すようなパワフルなものであったので、簡単に受け入れられるものではありませんでした。だからこそ、イエス様の教えを拒絶する人が現れても何の不思議もありません。 私たちは、初めて触れるものや価値観を受け入れるのに苦労します。ましてやそれが、今まで自分が正しいと思っていたことや、大切にしていたことを180度変えることを迫るものであるならば。その話に不快感を覚えて、怒りをもって反発してしまいます。 もしかすると、そんなことを言う人に対して、声を荒げてしまうかもしれません。 「あんたとおれに、一体何の関係があるんだ。おれにかまわないでくれ」 私たちはしばしばイエス様の教えを受け入れられないことがあります。イエス様が伝えようとしていることがよく分からないからです。 神の国が近づくことはどういうことなのかイメージできない。ですが、その教えが正しいことは知っている。分からないけれど正しい。だから受け入れないといけない。しかし、分からないことをこころから受け入れることはできない。だから、悔い改めて福音を信じることができない。 「できない」というジレンマはいつしか責められているような感覚を私たちに与えます。クリスチャンとして赤点、落第であると言われているような気になる。そしてそのことに対して私たちは不当な怒りを、あるいは物分かりの悪い自分への悲しみの想いをもつようになる。そして、そんな憂鬱に耐えられなくなる時が来る。そして、イエス様から離れてしまいたくなる。口に出して言わないまでも、こころの中で叫んでしまう。 「ナザレのイエスよ。わたしにかまわないでくれ」 イエス様を拒絶して、教えられていることを考えないで生きようとしてしまうことはよくあることなのではないでしょうか。 あるいは、真面目で素直な私たちは分からないものを分からないまま答えることはできます。毎週の礼拝の中で教えられていることを唱えることはできるからです。 「キリストは、十字架による贖いの業によって私たちの罪を赦し、悪魔のあらゆる力から私たちを解放してくださいました。また、復活され、死に勝利されることで、死すべき私たちに永遠の命を保証してくださいました。だからイエス様は救い主であり、真の神の子であります」 これは教義に根差した正しい答えであるかもしれません。テストの答案に記せば、恐らく丸がもらえる答えです。ですが、これらの言葉に込められたものを心から、体から、そして魂から受け止めているのでしょうか。 ただ言葉を唱えることは悪霊もしています。「あんたの正体は分かってるよ。神の聖者、神の子なんだろう」 もしこの告白に喜びや感動がないのであれば、イエス様はおっしゃるかもしれません。「黙りなさい」と。 イエス様は悪霊を追い出す前に「黙れ」と言います。イエス様は悪霊に神の子であると告白することを許しませんでした。このように、マルコ福音書に記されたイエス様はしばしば悪霊や人に「黙ること」を求めます。 これは難しい用語で「沈黙命令」と呼ばれています。「沈黙命令」を促すイエス様の目的が何であるのかについては学者のあいだで多くの議論がなされています。 この命令は福音書に記されている様々な場面で出されているので、イエス様のご生涯すべてを通して神さまが教えてくださることを待たないといけません。ですが、その代わりに、私たちがイエス様の権威ある力を目の当たりにした時、どんな態度をとれば良いかを今回の聖書箇所は教えてくれています。 悪霊を追い出すという特別な力を目の当たりにした会衆は「神の子ばんざい!」とイエス様を崇めて賛美することはしませんでした。その代わりに、彼らはとてつもない驚きの中で話合いました。 「これはいったいどういうことなんだろう」 これほど常軌を逸した場面に遭遇したのにも関わらず、彼らは、悪霊を追い出すイエス様の業について話し合うのではなく、イエス様の「教え」が何であるのかを考えて、話し合っているのです。 イエス様の教えを拒絶せず、かと言って安易に受け入れもせず、自分が経験している事の意味を尋ね求めている。そんな人こそが信仰者であるということを、私は神学校の恩師から教えられました。 東京神学大学の前学長。大住雄一先生は神学校が求める生徒像は「分からずや」の人間であるという文章を書いています。長くて難しい文章ですが、一部抜粋してご紹介します。 『神のことばは信ずべきものであり、信じてみなければわからない。だから、神学は信仰なしには成り立たない。そして、信仰において求められるものは、従順である。 しかし神は神であるから信じられてきたのであって、神が神であることについて、私たちがすべてを納得しているわけでもない。 ただ、納得できないことを、そもそも神など信じられないということまで含めて、ほかならぬこの神にぶつけてきた信仰であり、納得できないからと言って神を見捨てることもできない、そういう従順なのである。「わからない」神に、神のみこころは「わけがわからない」と格闘を挑むなどという人は、世間では喜ばれない。 世間は、「はなしのわかる」神を求め、「飲み込みが早くてききわけのよい」ひとを喜ぶ。しかし私たちは、あえて、「わからない」神の前にしっかりと立って、世間に流されない教会とその神学を確立したい。「わからない」ということから逃げてはいけないのだと思う。共にその志に参与する仲間、神の前に共に立つ筋金入りの「わからずや」を求めている。』 分からない神さまに対して安易に納得しないで、忍耐強く神さまのみこころを追い求めることができる従順な分からずやこそが、信仰者の姿であると、大住先生は述べています。 つまり、神さまに躓いて、問いかけることは罪ではないということです。 むしろ口では「あなたはメシアです」と告白しつつ、その意味を尋ね求めようとしないことに神さまは悲しみを覚えるでしょう。「これはいったいどういうことなのだ」と躓きながら「権威ある新しい教えだ」とイエスの言葉をたいせつなものとして受け止める。それが信仰者としての歩みです。 私たちは聖書科の授業を受けているのではありません。だからこそ、テストで点数を取るために答えを暗記する必要もないのです。物分かりの悪い分からずやとして、神さまから与えられている問い、つまり、イエス様がどなたであるのかを尋ね求め続ける。 私たちは、そんな生涯の旅路を歩んでいます。 そして、この旅路は喜びの歩みです。懸命に分からないみことばと格闘すればするほど、私たちがどれほど大きな恵みを与えられているのか。どれほど特別に神さまに愛されているのかが分かります。その感動は、増え続けはすれど、減ってしまうことは絶対にありません。 「聖書を神さまからのラブレターとして読みなさい」と教えたのは哲学者のセーレン・キルケゴールでした。教会には、神さまのメッセージの喜びを分かち合える兄弟姉妹がいます。だからこそ、イエス様のもつ力の凄まじさを想いつつ、驚きと喜びに満たされて、毎週のお礼拝の中で共に神さまに聞きたいのです。 「天のお父さま。これはいったいどういうことなのでしょう?」 参考 大住雄一 「分からずやの学校」 https://www.tuts.ac.jp/news-all/voice/teacher/osumi.html |
越谷教会 清水義尋伝道師 (しみず よしひろ) |
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