2021年9月のみことば

ラザロ、出て来なさい!

 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
                (ヨハネによる福音書11章28~44節)

 この聖書の箇所が、葬儀においてしばしば朗読されたことを思い出します。私たちは、「ラザロ、出て来なさい」という声を、終わりの日の希望として聴きます。終わりの日、イエスさまが呼びかけてくださる。起きなさい、墓から出て来なさい。私たちは、呼びかけに応えて、安心してイエスさまのもとへと向かえばよい。終わりの日の確かな希望によって、私たちは地上の生涯を歩み、そして、眠りにつくことがゆるされています。

 イエスさまは、すぐ前の箇所(25節)で、「わたしは復活であり、命である」とおっしゃいました。先ほども述べたように、イエスさまがおっしゃった復活や命は、終わりの日の希望を確かに指し示しています。しかし、それだけではないように思うのです。つまり、イエスさまが命であるということは、終わりの日においてだけではなく、今、地上の生涯を歩む私たちにとっても命なのだ、と思えてならないのです。

 イエスさまの友人であったラザロは、なんらかの病気によって亡くなりました。ラザロの姉妹であったマリアとマルタは、共に嘆きます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マリアは泣いています。主よ、どうしてあなたはラザロを癒してくれなかったのですか。どうして私たちと共にいてくれなかったのですか。あなたが間に合ってさえいれば……。どうして愛するラザロが死ななければならなかったのですか。どうして。どうして……。

 ラザロの死を悲しむ人々の姿をみて、イエスさまは「心に憤りを覚え、興奮した」、と記されています。どうして来てくれなかったのかと、責められたからではありません。ラザロの生涯が死によって終わってしまった。イエスさまは、死の支配という現実に憤られました。死が勝利してしまうことに、深く憤られたのです。

 ラザロの死は、もはや確実なものに見えました。マルタは言います。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。におってしまうほどに日が経っている。紛れもなく、ラザロは死んでいたのです。しかし、イエスさまは語ります。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。そして、続けておっしゃいました。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」。イエスさまは、墓に向かって大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」! その願いは確かに聞かれ、ラザロは墓から出て来ました。

 ラザロの復活は、一方で、終わりの日の希望の先取りです。しかし、それだけではありません。すでに死んでいる人たちに対してだけでなく、今を生きる私たちにとっても、イエスさまはまことの「命」なのです。前の箇所(23節以下)に、イエスさまとマルタの会話が記されています。イエスさまはおっしゃいました。「あなたの兄弟は復活する」。マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。終わりの日の復活は、実は当時、一般的に信じられていたことでした。だから、マルタは、イエスさまが終わりの日について語っているのだと勘違いしたのです。しかし、イエスさまは告げます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。まさに今、ラザロは復活した。ここに私たちは、いずれ来る希望であるだけでなく、今も働き続ける神の力を知らされます。ラザロの復活という出来事は、今を生きる私たちの命についての希望でもあるのです。

 イエスさまは、ご自身を「復活であり、命である」と告げられました。命であるイエスさまにつながることで、私たちは、新しい命に生きる者へと変えられます。この出来事を通して、ラザロだけでなく、マルタとマリアも、イエス・キリストというまことの命に生きる者とされました。私たちも同様に、いずれ訪れる希望だけでなく、今、イエスさまと共に生きる希望が与えられているのです。イエスさまを信じ、教会につながる者は、「命」を与えられているからです。

 そして、だからこそ、イエスさまを信じるならば、私たちはもはや死を恐れる必要はありません。確かに、死は悲しく、怖いものです。でも、その死は、すでにイエスさまによって克服された死なのです。イエスさまが十字架において、私たちの罪、私たちの死を、代わりに負ってくださった。そして、死の力に勝利され、墓から出てこられた。イエスさまがまことの「命」なのだから、イエスさまと共に歩む私たちは、この新しい命に生きるのです。それも、今、この命に生きるのです。「ラザロ、出て来なさい」。墓から出て来なさい。死の底から出て来なさい。これまでの古い人生から出て来なさい。新しい命へと出て来なさい。すでに眠りについた者も、そして、地上の生涯を歩んでいる私たちも、イエス・キリストという希望に、共に招かれています。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、本当に生きる者へと変えられるのです。
春日部教会 平澤 巧伝道師
(ひらさわ たくみ)





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