2021年10月のみことば

クリスチャンの愛の源

 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
                (ルカによる福音書6章27~36節)


 私たちは生きている限り、楽しいこともあれば、辛いこともあります。また、様々なことで悩むむことも多いかもしれません。特に職場においての悩みは、もしかしたら業務内容よりも、人間関係の悩みが多いかもしれません。聖書には「敵を愛しなさい」という教えが書かれています。なんと崇高な教えでしょうか。私の大学時の友人が「キリスト教の教えって素晴らしいよね、だから聖書を学んでみたいな」と言っていたことを思い出します。「敵をも愛すことができる」とは素晴らしいことです。でもそれを素晴らしい教えとして聞いている時は良いのですが、他人ごとではなく、実際に「敵を愛す」を実践しなさいと言われるなら、私たちは戸惑い、その教えとは関係ない立場に逃げ出したくなるかもしれません。それくらい「敵を愛す」とは、多くの人にとって実行困難なものであるかもしれません。

 人間関係に悩むからこそ、私たちは自己啓発本を読んだり、セミナーを受けたりします。でも、今日は「敵を愛しなさい」とおっしゃった本人であるイエス・キリストの教え、聖書の御言葉から、この「クリスチャンの愛の源」について共に聞いていきたいと思うのです。

 今日の聖書箇所の27-29節を見てみましょう。
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口をいう者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」

 ここで4つの「~しなさい」があります。それは「敵を愛しなさい」「あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「悪口を言う者に祝福を祈りなさい」「あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」です。思わず「そんなことできない」「したくない」と思ってしまう内容かもしれません。敵に敵対することをしないまでも、私たちは敵に対して避けたりすることが処世術であると学んでいる方も多いでしょう。しかし聖書は、敵から距離を置くどころか、敵を愛しなさいと語るのです。容易なことではありません。また、自分を憎む者を憎むことはあっても、親切にすることもです。また、悪口をいう人のために祝福を祈ること、侮辱してくる人のために祈ることなども、とても心が伴わない気持ちになってしまいます。

 続いて、29節から30節を見ていきましょう。
 「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪いとる者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」

 さらに、聖書は、どこまでも「与え」なさいと語るのです。そんな善人のようなこと、頭では素晴らしい行いだとは思うけれど、実践するのは難しい。だってそれではあまりにも自分がかわいそうではないか?辛すぎやしないか?とお思いになられるかもしれません。

 しかし、クリスチャンは自分をいじめて、我慢して、無理して、そのようにしようとしているのではありません。クリスチャンは圧倒的な存在である、この世を創造した神、全知全能の父なる神の存在を知っているからです。なぜなら父なる神の存在を知ってるかどうかは大きな違いを生むのです。聖書のローマ信徒への手紙12章17-19節には「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は神がすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。」という言葉が書いてあるからです。

 聖書は私たちが何か害を受ける時、自分自身でやり返さなくてよいと教えます。なぜなら、自分でしなくても、全知全能なる父なる神が、私たちの代わりに、人間の私たちよりも遥かに正しく、その全能の力で裁き、報復して下さるからです。父なる神が正しく裁いて下さることに、自分の思いを委ねていく時、私たちの心に平和が訪れます。またそれと同時に、私たちが相手に対して抱く悪感情から自分が解放されていくことにもなります。さらに、悪に悪で返すという罪を犯すことからも守られていくのです。自分でやり返したいと思うところには「罪の呪縛」がはびこっています。怒りや恨みに継続的に支配される呪縛に陥らないために、その賢い対処法として、聖書は「神がなさる復讐、報復に身を委ねなさい」と語るのです。

  箴言25章21-22節には「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」と書いてあります。私達が悪に対して、善を行うなら、神様の報復である炭火が、相手の頭の上になおいっそう積まれていくと聖書は語ります。クリスチャンは人間のできる領域での仕返しよりも、神様のなさる報復の方が何億倍も正しく、恐ろしいことを知っています。

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」が27節から30節のまとめとして31節に記されています。具体的な行動の例として27節から30節まで書かれていましたが、聖書に書かれている具体的な例に記されていない事柄は、この31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」に沿って考えていけばよいのです。

 しかし皆さんが抱く「クリスチャンの愛」のイメージって、神様の復讐に委ねるような消極的な愛し方でしょうか。もしかしたらイエス・キリストがおっしゃった「敵を愛しなさい」という「愛」はもっと「愛したい」と湧き出るような積極的で主体的な「愛」のイメージを持たれた方が多いかもしれません。そうなのです。イエス・キリストが教えた「敵を愛する愛」とは、もっと愛情にあふれた愛です。積極的で主体的な「愛していきたい」という愛です。
 私たちは、その愛の源を見ていく前に、なぜ人間は敵を愛したり、惜しみなく与えることが難しいのかの根源を見ていきたいと思います。

 32節から34節までを見てみましょう。
 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」

 なぜ私たちは敵を愛したり、惜しみなく与えることがなかなかできないのでしょうか。その人間の本質、性質を面白いほどよく表していのが、32節の「〇〇したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも〇〇している」という3つの例文です。「自分を愛してくれる人を愛したところで、どんな恵みがあるか。罪人でも愛してくれる人を愛している。」「自分に善くしてくれる人に善い事をしたところで、どんな恵みがあるか。罪人でも同じことをしている。」「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあるか。罪人さえ同じものを返してもらおうとして貸すのである」と書かれています。

 そう、つまり、私たち人間は「物々交換ならできる」のです。愛してくれるから愛することができる。よいことをしてもらったから、善いことを返すことができる。返してもらえると分かるから貸すことができる。つまり、私たち人間は、物々交換ではないことがしづらいのです。どうして人間は物々交換でないと与えることができないのでしょうか。なぜ見返りが無いと与えることができないのでしょうか。
 それは、私たち人間が罪人だからです。聖書は全ての人が罪人だと教えています。

 一般的に世間は、罪とは罪ある「行為」だと認識しています。しかし、聖書は、「罪」とは「行為」よりもむしろ「心の状態」のことを示しています。聖書が語る「罪」の本質を分かりやすく言うなら「自分中心」です。罪とは「自己中心」なのです。そして自己中心的な心を持っている人間を罪人と言い、聖書は全ての人間がこの「自己中心」を持った「罪人」であるとはっきりと語っているのです。

 このメッセージを語らせていただいているこの私も、また、すべての教会の牧師も、すべてのクリスチャンも「罪人」です。ですので、私にとっても、すべての教会の牧師にとっても、すべてのクリスチャンにとっても、イエス様が語る「敵を愛する愛」はとても難しい愛であり、自分の力では決して成し遂げることのできない愛なのです。なぜなら私たちは誰も例外なく罪人であり、罪の根源である「自己中心」の欲と思考を必ず心に隠し持っているからです。

 どんなに崇高な考えを一時持てたとしても、どうしても好ましく思えない相手に対しては、「自分が損をしたくない、譲りたくない、自分が良い思いをしていたい」という思いが心の底に疼くのです。私たちは、態度に出すか出さないかは別として、心の中に「敵意」「怒り」「不和・仲間争い」「妬み」などの感情が起こる時に多くの場合、人間関係の悩みに苦しみます。

 聖書は上記に上げた事柄すべてが「罪」の結果起こる現象・感情であると語り、そして、その事柄を生み出す源は「自分が損をしたくない、譲りたくない、自分が良い思いをしていたい」という心の奥深くに見えないようにして存在している「自己中心の罪」であると教えます。そして「自分を中心にする」ことは「神を中心にしないこと」であり、神に対して背を向けることです。自己中心とは自分を中心にすることであり、また神に背を向けている状態のことなのです。これが罪です。

 神に背を向け、自分を中心にしてしまうからこそ、敵を愛せないのです。たとえ「あの人のためだったら損をしているような自分の状態でも甘んじて受け入れられる」と思えることがあっても、「すべての人」に対して、「すべての状況」に対して「自分が損をしている、自分がかわいそう」な状態を快い気持ちで受け入れられるかと言えばそうではないことを、皆さんもお感じになられておいでかもしれません。

 そして、愛をもらっているから愛する、よいことをしてもらったから善いことをする、必ず返してくれると知っているから貸すという、物々交換であるならば「損しない」ので、することができるのです。すべての人間の心の奥底に存在している「罪」が、自分だけ与えるのに、自分が何も得るものがないという状況を拒絶させるのです。罪の結果、私たちは見返りなく与えることが非常に難しいのです。
 
 ここで「あれ?」と思われている方もいらっしゃるかもしれません。すべての人が罪人であるなら、クリスチャンも「敵を愛すること」など不可能であり、このメッセージの冒頭と食い違っていると。私たちは「クリスチャンの愛の源」を知りたいと見てきたはずです。

 大丈夫です。私も含めてクリスチャンがすべて罪人ですが、「クリスチャンの愛の源」について聖書はちゃんと記しているからです。聖書は「正論」を語ります。でもそれは私たちに正論をぶつけて、私たちをいじめたり、絶望させるために書かれているのではありません。ある牧師が「聖書には正論が書かれていますが、聖書は正論の書物ではない、愛の書物だ」と言っていました。私は「なるほど、本当にそうだなぁ」と思いました。聖書は確かに「正論」「本当に正しいこと」「真実」を語ります。でもそれは同時に「惜しみなく人間に注がれている神の愛」を語っており、だから聖書は「愛の書物」なのです。そして、この「神の愛」に「クリスチャンの愛の源」が詰まっているのです。

 キリスト教はイエス・キリストは「救い主」であると教えていることをご存じの方も多いと思います。実際にイエス・キリストは人類を救うためにこの世に来て下さった救い主です。この救い主の姿を通して示されている「神の愛」を聖書は語ります。そして、このイエス・キリストを通して表されている「神の愛」が「クリスチャンの愛の源」なのです。

 イエス・キリストは何を成し遂げ、どんな救いの業をしてくださったのでしょうか。
 イエス・キリストは、私の中にあり、みなさんの中にある、敵を愛せない自分、惜しみなく与えられない自分、それらの悩みの根源である「罪」を解決して下さったのです。聖書のローマの信徒への手紙6章には「罪が支払う報酬は死です」と書いてあります。実は、すべての人が心の奥底に持っている「罪」の償いは「永遠の死」を持ってなされるのです。

 私たちは全ての人がこの世での生涯終えたとき、神の前に立たされ、最後の審判にかけられます。そして、その人の罪の有無によって、神の裁きを受けるのです。そして残念なことに、すべての人に「罪」があるため、罪に対する神の裁きが死であるなら、すべての人が天国に入ることなく、永遠の滅び、永遠に死ぬのです。しかし、人間をこよなく愛しておられる神は、「一人も滅びないでほしい」と強く願い、「なんとかしたい」「人類に救いの道を与えたい」と、神の御子であるイエス・キリストをこの世に遣わすことによって、人類の救いの道を用意したのです。

 神は正しいお方です。「善いことは善い」「悪いことは悪い」と、善悪について正しく裁かれるお方です。だから、「罪」に対する「永遠の死」という裁きを決して変えることは、御自身の聖なる性質上おできになりません。だから、「罪に対する死という裁き」はどうしても変えることができないのです。そこで神は、人類が受けるべきである「罪」への神の裁き、つまり「罪」に対する神の罰を、人類が受けずに代わりの者に受けさせたのです。人類の代わりに「罪に対する神の罰」を全て受けて下さったのがイエス・キリストです。そして、それが十字架にかかられたイエス・キリストなのです。

 聖なる神の御子であられるイエス・キリストは人となってこの世に来てくださいました。そして、聖なる方ですから、「罪」を一切犯すことがありませんでした。だからこそ、私たちの代わりに「神の罰」を受けることができたのです。もしイエス・キリストにも罪があったなら、十字架上で神の罰をお受けになったとしても、それはご自身の罪に対しての「神の罰」を受けただけであって、私たちへの「罰」がなくなるわけではありません。しかし、まさに神の御子であり、罪の犯したことの無い方だったので、私たちの罪に対する「神の罰」を代わりに受けることができたのです。

 ここで確認しておきたいことは、物理的に十字架にかかれば「神の罰」を受けたことになるわけにはならないということです。イエス・キリストは、私たち人間が「神の罰」を受けて下さったことが良く分かるように十字架にかかられました。しかしイエス・キリストの十字架でなされた神の罰とは、人間が見えることができる「肉体的な苦痛」や「肉体の死」だけではなかったのです。なぜなら「肉体的な苦痛」や「肉体の死」だけでは、罪に対する完全なる償いは済まされないからです。

 人間の目には見ることができない「精神的な死」、そして、一番重要な「神との関係を一切失うという霊的な死」をもってなされるのです。その「肉体的な死」「精神的な死」「霊的な死」をもって、私たちの代わりに十字架上で「神の罰」を完全に受けて下さったのがイエス・キリストなのです。そして、人類のすべての罪に対する償いが、イエス・キリストの十字架によってなされたのです。

 そして聖書は、この神の御子であるイエス・キリストが人類の罪ために十字架にかかって、神の裁きを代わりに受けて下さった救い主であると信じ受け入れるなら、イエス・キリストの償いがその人のものとなり、永遠の死、永遠の滅びから救われて、逆に、天国へ入る「永遠の命」を得るものと約束します。私たちが地上でイエス・キリストを自分の「救い主」として信じ受け入れるなら、天国の「命の書」に私たちの名が記され、また、最後の審判で神の前に立たされたときに、イエス様が「私はこの人のすべての罪の裁きをかわりに受けました。だから、罪による神の罰を受ける必要はありません」と言って下さるので、私たちは永遠の滅びではなく、天国へと入ることができるのです。

 「救い」に必要なのはイエス・キリストを通してなされた「救い」を、素直にそのまま信じ受け入れることです。「救い」の条件には善行や修行、努力は一切入りません。「素直にそのまま信じ受け入れるかどうか」なのです。そして、この救いを受け取ったときに、その救いの「喜び」、救いによって知った「神の大きな愛」に魅せられて、神に喜ばれる生き方をしたいという思いと、そのように生きる力が与えられ、そのように生きる者と変えられていくのです。

 聖書には借金をしたある2人のたとえ話が書かれています。一人は約500万円、もう一人は50万円借金をしていました。2人に返すお金がないことを分かった金貸しは両方の借金を帳消しにしてあげました。この2人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。それは帳消しにしてもらった額の多いほうだというものです。(ルカによる福音書7章41-43節)自分の負債を帳消しにしてもらった人は、帳消しにして下さった人を愛していくのです。

 それは、私たちも同じです。クリスチャンは神が私たちの罪の負債を、御子イエス・キリストによって帳消しにして下さったことを知って、神を愛する者となっていきます。また、どんなに多く帳消しにして下さっているか、つまり、どれほど多くの罪が赦されているかを知れば知るほど、神に対する愛が深まっていくのです。

 私はローマの信徒のへの手紙の5章6-8節に「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信人な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者もほとんどいません。善い人のために命を惜しまないものならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」という聖書の言葉に神の愛を深く教えられました。

 イエス・キリストは私がイエス・キリストを信じる前に、正しくない者のために死んでくださったことを知りました。救われるために自分で何かした後ではなく、何もする前に、神の愛と恵みによって「私の救いための死」を遂げて下さったのです。このイエス・キリストの死は一切の見返りの求めないものです。イエス・キリストはすべての人のために死んでくださいました。そこにもれている人はこの世に誰もいません。

 残念ながらイエス・キリストを信じず受け入れないことを選んだ人のためにも変わらず、2000前に十字架上で死んでくださったのです。ご自身の命を私たちのために犠牲にして下さったのです。つまり、惜しみなくご自身の命を与えて下さったのです。なぜなら、私たち人間が神を愛する前から、愛を返してくれなかったとしても、神は人間を、その存在を尊く思い、失いたくないと犠牲を払うほどに愛して下さっているからです。神がまさに「見返りを求めずに、惜しみなく与えつくして下さったお方」なのです。

 当時のイスラエルの刑罰の中で最も酷い刑が十字架刑でした。ローマ市民権を持っている人は受けられないほど、人権がある人には行えない刑罰でした。それを正しく聖い神の御子は私たちの代わりに受けて下さったのです。愛する独り子が十字架にかかり死ぬ姿を見なければいけなかった父なる神の痛みはどれほどのものだったでしょうか。しかし、そこまでしても、そこまでの痛みを負っても、人間を救いたいという神の愛が勝ったのです。

 クリスチャンは自分に注がれている神の愛を知っています。そして、神を愛する者へと深められていきます。それと同時に、自分にとってよくない存在の人であっても、この神の愛から漏れている人は誰もいないことを知ります。好ましく思えない、それどころか私たちが不幸を望んでしまうような人であっても、神は愛しておられるのです。

 私たちは自分の大切な人が尊重しているものを大切にしようと思う心があります。同じように、私たちも神が大切に思っておられる人のことを、神を悲しませたくないという神への愛から、尊重する人になりたいと思うようになるのです。そして、そのことができるようにしてくださいと神に願い求めていく時、それを成し遂げることのできる「神の愛」によって、私たちは敵をも愛す者へと変えられていくのです。

 物々交換でなければ、人を愛したり、人に与えたりすることのできない私たちのために、まず、私たちに大きすぎる愛を与えて下さったのが神なのです。ローマの信徒への手紙6章23節の「罪が支払う報酬は死です」の続きにはこう書かれています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」「賜物」という言葉は見返りなく与える無償のプレゼントという意味を表す言葉です。確かに罪が支払う報酬は死ですが、それと同時に神はイエス・キリストを見返りなく無償で与えて下さっているのです。

 今日の聖書箇所の最後、35節から36節を見ましょう。
 「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」

 わたしたちは聖書が父なる神がいかに憐み深いか、どんなに人間に対する愛が深いかを見てきました。イエス様は「敵を愛しなさい」の教えの最後に「父なる神が憐み深いから、あなたがたも憐み深い者になりなさい」と仰います。

 罪人の私たちは物々交換ならできると話しました。私たちが憐み深い者(愛の深い者)になることができるように、もう既に神の方から、物々交換のものは支払われているのです。それだけでなく、私たちの救い主であるイエス・キリストは神のさばきによって完全な死を成し遂げて下さっただけでなく、死に打ち勝つ神の力によって復活し、天に帰られた後は、目には見えませんが、私たちといつも共にいて、私たちが敵を愛すことができるように、惜しみなく与えることができるように助け導いて下さっているのです。私たちが「敵を愛す」ことができるようになるための準備はもうすでに神の側から提供されているのです。クリスチャンの愛の源は、人間をこよなく愛しておられる神の愛にあるのです。
深谷西島教会 竹内真理伝道師
(たけうち まり)





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