2021年11月のみことば

わたしたちの支え

 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
                (ガラテアの信徒への手紙1章1~5節)

 私たちが聞きたいと思うもの、それは福音です。良き知らせです。私たちの生きる時にも、死ぬ時にも福音となるのは、一体どういう出来事でしょうか。その福音の奥行きを知りゆく時に、ガラテヤの信徒への手紙の言葉は、良い導き手になってくれます。その冒頭に聴きたいと思いますが、ここは、とりわけ手紙を書いた使徒パウロが力を入れているところです。

 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。
 「人々からでもなく、人を通してでもなく」と始まります。これは、人の力によらずと言ってもよいと思います。人々が会議のようなものをして、パウロを使徒にしようとしたのではなく、有力な誰かによって使徒として押し上げてもらおうとしたのでもありません。そのようなことが私を使徒として生かしているのではないのだと言うのです。自らを使徒として立たせている支えは、イエス・キリストと父なる神だ、と語りました。

 支えはイエス・キリストと父なる神。これは使徒として立てられているパウロに限ったことではなく、教会に集う私たち一人ひとりに言えることです。今、ここに、私たちがいることは、人の目や人の力を気にするためではない。ただイエス・キリストと父なる神によって生かされている。それも、キリストを死者の中から復活させた父である神と丁寧に語られます。これは、言い換えれば、主イエスの復活の出来事を語っているのです。イースターの出来事です。イースターは、ただ、あの春の、主イエスの受難週を通って復活をおぼえる季節のことだけではありません。いわば、毎日曜日訪れるものです。だから、私たちは、日曜日ごとに教会に集まり、礼拝をしています。だから、この挨拶は、あなたたちは、イースターの喜びに生きているか、生き続けているか、と、問いかけているようにも聞こえてきます。

 主イエスを死者の中から復活させた「父である神」とあります。よく読みますと、ここでは、続くところでもただ「神」と語らず、「父なる神」とパウロは語ります。およそ人間的な力や権威を借りないパウロにとって、神を父と呼べる。このことがどれだけ力を与えていたことでしょう。神を父と呼べると言うことは、自分は神の子どもだということになります。私たちは神の子なのです。どんなに若かろうとも、年老いたとしても、教会のもの、キリストのものとなれば、神の子です。私たちになじみの深い主の祈りでも、そのことをいつも確かにします。「天にまします我らの父よ」と。私たちは神を父と呼べる存在なのです。

 「わたしたちの「父」である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、私たちの神であり、「父」である方の御心に従い、この悪の世から、私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げてくださったのです。私たちの神であり、「父」である方に、世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」

 冒頭では死者の中からの復活のことが語られているのに対して、ここで書かずにいられなかったのは、主イエスの十字架です。その死は、私たちの罪のためであった。私たちを罪から、神から離れて行こうとする思いから、解き放つため、私たちを悪の世から救うため。そのために、主イエスは十字架で身を献げてくださった、そのことを忘れないで欲しいと使徒は語ります。

 先ほどは、イースターを思い起こすように、と言いましたが、そのイースターの復活の輝きに照らされて、更に思い起こすようにとパウロが願うのは、主イエスの十字架の出来事です。私たちの罪のために死んでくださった方を忘れないように。死をも飲み込んでしまわれた命のキリストの中に、あなたの命、存在そのものは息づいているのだからと熱をもって説くのです。

 そのキリストと私たちの父である神とから、恵みと平和があなたがたにあるように。五節では、私達の神であり、父である方に、世々限りなく栄光がありますように、と祈りの言葉が出て来ます。
 ここにあるのは、クリスマスの天使の歌声です。御子イエス・キリストが誕生した夜に、羊飼いに現われた天使たちは、「神には栄光、地には平和」と空一面の大合唱をなします。その合唱と同じ言葉がここにあります。クリスマスの時の天使の讃美を地上の教会の者たちも口ずさむことができるのです。キリストが到来されることで、歌い出すことのできる祈りの言葉がここにあります。私たちはいつでもクリスマスを祝うことができる。どんな時でも、天の喜びを地上で告げる御使いとなることができる。

 たった五節の挨拶。しかし、ここに、イースターがあり、十字架があり、クリスマスが溢れています。それも、不思議なことに主イエスのご生涯の逆順をたどるかのような言葉がここにあるのです。普通、私たちが人を紹介しようとすれば、順序だてて生まれから歩みをたどります。しかし、主イエスを知るには、イースターから十字架、そしてクリスマスへと向かうほうが、ふさわしいと使徒は知恵をいただいたのです。

 教会の中心は主イエス・キリストです。主が中心におられて、初めて教会は教会として姿を現わすのです。神を礼拝するものとして集められ、主イエスの福音を知り、私たちは主の御使いとなって福音を告げ知らせるものへとされていくのです。私たち一人ひとりもまた、主イエス・キリストの救いの出来事に織り込まれているのです。ここに福音はいつでも輝く響きをもっているのです。
和戸教会 佐藤進牧師
(さとう すすむ)





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