2022年1月のみことば |
わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 (テサロニケの信徒への手紙一 2章13節) |
![]() 使徒パウロは選ばれ、召されて、教会に委託されている十字架の福音を語り伝える器とされ、用いられています。教会にはかしらなるキリストの救いの恵みが満ちています。その救いの恵みを委ねられた器が人々のもとに届けるのです。 ![]() ところが、主の日ごとにいつもと変わらず、朝6時半からの礼拝に教会員は集まってくるのです。そこに、礼拝に御臨在する復活のキリストにお会いしている信徒、死人を復活させる愛の力にあずかろうとしている信徒の姿があり、感動しました。この礼拝にはキリストが現臨しておられ、救いの恵みを一人ひとりに届けておられる事実を知らされました。 礼拝は教会のかしらなるキリストが御臨在しておられ、救いの御業をなさる場である事実を見せていただきました。牧師は、生きて御業をなさるキリストを聖書によって説き明かすのです。それを神の言葉として受けいれる者の内に、その神の言葉が現に働くのです。説教者はキリストが救いの御業をなさる場としての礼拝を確信すべきです。そしてそのキリストの器として用いられている喜びと誇りをもって仕えるのです。 ある教会に百歳を超えた婦人が押し花のはがきを作って、教会員に出しなさいと言って10枚ほどくださった。私が「こんな立派なものに書くことができない」と言うと、「聖書のお言葉を書きなさい、字が下手でも、御言葉には力があります」と言われてしまいました。私が牧師を今日まで続けられたのは、御言葉にある恵みの力に支えられたからです。牧師の聖書の学びは修行の場です。自分を捨てて、御言葉の力に明け渡していく修行をするのです。乙女マリアのように、「御言葉どおりこの身になりますように」と、そして使徒パウロのように、「最早、我生くるにあらず、キリスト我が内に在ありて生くるなり」(ガラテヤ2章20節)と証言するのです。 ![]() 現在、コロナ禍にあって教会の命であり、死守すべき礼拝がおろそかになっているように思えます。私たちの教会では一日も休むことなく礼拝を守ってきました。スーパーが営業を続け、食べ物など生活に必要なものを提供し続ける限り、礼拝を維持しなければとの思いでした。アモス書11節に、「わたしは大地に飢えを送る。・・・。主の御言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」とある。教会員には毎日の検温など体調管理、さらに公共交通機関を使用しないで来られることをお願いしました。礼拝時間の短縮、讃美歌などは着席のまま、暑いときも、寒いときも、換気を心がけるなど、感染防止を心がけました。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」にならぬよう、教会員一同の祈りを結集しました。 |
鴻巣教会 川染三郎牧師 (かわぞめ さぶろう) |
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