2022年1月のみことば

神の言葉にある力

わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。
                (テサロニケの信徒への手紙一 2章13節)  


 神にある死人を復活させる愛の力は独り子イエス・キリストの受肉において実現しています。その御子イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところにわたしもいる」と約束され、呼び集められたキリスト者の群である教会のかしらとして御臨在しておられます。かしらなるキリストの十字架と復活にある救いの御業を教会は福音として、つまり言葉として持っているのです。

 使徒パウロは選ばれ、召されて、教会に委託されている十字架の福音を語り伝える器とされ、用いられています。教会にはかしらなるキリストの救いの恵みが満ちています。その救いの恵みを委ねられた器が人々のもとに届けるのです。

 かつて、八丈島の教会に遣わされ、4年間すごしました。30才過ぎたばかりの若造でした。2年目に教会の大黒柱であった方が亡くなり、相次いで最も古くから教会を支えてこられた婦人が天に召されました。数少ない信徒の中で中心となっていた2人が天に召されたのですから、私はがっかりして、この教会は終わったと思ってしまいました。

 ところが、主の日ごとにいつもと変わらず、朝6時半からの礼拝に教会員は集まってくるのです。そこに、礼拝に御臨在する復活のキリストにお会いしている信徒、死人を復活させる愛の力にあずかろうとしている信徒の姿があり、感動しました。この礼拝にはキリストが現臨しておられ、救いの恵みを一人ひとりに届けておられる事実を知らされました。

 礼拝は教会のかしらなるキリストが御臨在しておられ、救いの御業をなさる場である事実を見せていただきました。牧師は、生きて御業をなさるキリストを聖書によって説き明かすのです。それを神の言葉として受けいれる者の内に、その神の言葉が現に働くのです。説教者はキリストが救いの御業をなさる場としての礼拝を確信すべきです。そしてそのキリストの器として用いられている喜びと誇りをもって仕えるのです。

 ある教会に百歳を超えた婦人が押し花のはがきを作って、教会員に出しなさいと言って10枚ほどくださった。私が「こんな立派なものに書くことができない」と言うと、「聖書のお言葉を書きなさい、字が下手でも、御言葉には力があります」と言われてしまいました。私が牧師を今日まで続けられたのは、御言葉にある恵みの力に支えられたからです。牧師の聖書の学びは修行の場です。自分を捨てて、御言葉の力に明け渡していく修行をするのです。乙女マリアのように、「御言葉どおりこの身になりますように」と、そして使徒パウロのように、「最早、我生くるにあらず、キリスト我が内に在ありて生くるなり」(ガラテヤ2章20節)と証言するのです。

 K. バルトが「教会において、ある単純なことが、何より重要なことは、それは聖書を読むことです。教会の弱さは、教会において聖書を読むことがあまりにも少なすぎるところに原因があると思いませんか」と、問いかけています。さらに、ウィルキンソンが「現代に生きる信徒のためのウェストミンスター信仰告白」の中で、「キリスト者が大量に教会を離れて、無関心や不信、あるいはその反対に種々のセクト、さらにはキリスト教以外の諸宗教に走る大脱走が起きている。それは、私たちの信仰の重要な真理に対する確信の欠如が原因である。聖書の大切な教理についてしっかりした教育がなされてこなかったため、教会員はキリストにおいて啓示された神についての豊かで力強い知識によって捕えられ、支配されることがなかったからである」と主張しています。

 現在、コロナ禍にあって教会の命であり、死守すべき礼拝がおろそかになっているように思えます。私たちの教会では一日も休むことなく礼拝を守ってきました。スーパーが営業を続け、食べ物など生活に必要なものを提供し続ける限り、礼拝を維持しなければとの思いでした。アモス書11節に、「わたしは大地に飢えを送る。・・・。主の御言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」とある。教会員には毎日の検温など体調管理、さらに公共交通機関を使用しないで来られることをお願いしました。礼拝時間の短縮、讃美歌などは着席のまま、暑いときも、寒いときも、換気を心がけるなど、感染防止を心がけました。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」にならぬよう、教会員一同の祈りを結集しました。
鴻巣教会 川染三郎牧師
(かわぞめ さぶろう)




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