2022年2月のみことば

宣教における誠実について


  (1節)こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。(2節)かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。(3節)わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。(4節)この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(5節)わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。(6節)「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
               (コリントの信徒への手紙二 4章1節1~6節)


 私たちは、普段の生活の中で、自分の人生について考える時間を、どのくらい持っているでしょうか?この人生は、自分が生まれてから死ぬまでの、長い年月のことではありません。その年月の中から、いまという時、今日を自分らしく生きているかを考える時間のことです。写真を撮ったとしたら自分の表情はどうか、喜んでいるか悲しんでいるか、笑っているか泣いているか、食事・散歩・炊事・洗濯・入浴といった毎日のありふれた日常生活で、自分を見つめ直す時間はあるでしょうか?信仰があってもなくても、誰もが生きていくために割かなくてはならない時間・労力というものがあり、その質を高めることが人生の豊かさにつながっていると一般的に考えられています。

 聖書の時代に生きた人々と私たちは、この点で同じです。人生の豊かさを量りにかけて計測したとしましょう。たくさんのお金、たくさんの友人、たくさんの褒める言葉・尊敬の気持ち、自分一人で手に入るものは何一つありません。家族を含めた他の人との関わりを通して、自分で決めたり人に言われたりしながら、あたかも人生の豊かさは数えられる物で出来上がっているように、錯覚をしていきます。

 本日の御言葉は宣教と生活は不可分であることを教えています。また教会においてこの働きに専念する者が牧師であり、聖書本文ではパウロの個人的体験を語ることでパウロに続く使徒たち、すなわち現代の牧師一人一人に至る牧師の在り方、牧師の誕生とその使命について語られています。

 1節で「務めがゆだねられている」という表現を通して牧師には任命者が必要であり、パウロはイエス・キリストによって教会の迫害者から伝道者へ変えられた体験を指しています。またその変化はパウロのユダヤ教徒としての熱意と努力が評価されたのではなく、むしろ「なぜ私を迫害するのか?」というキリストの問いかけにはじまり、パウロの嫌った使徒によって癒されるまでを含むキリストの憐れみが、パウロ自身を伝道者に変えたのです。「憐れみを受けた者」とはそういう意味です。牧師はキリストからゆだねられた務めと、キリストから受けた憐れみを常に意識することに健全であると言えます。

 2節は良い行いを志してそれを公言するすべての人が陥る危険を思い浮かべます。牧師もその一人です。表面上良い振る舞いをしていても隠れて悪いことをしていないか、良い行いの背後で自分の利益を追い求めていないか、聖書を自分に都合良く理解してそれを行うことで良い行いをしていると勘違いしていないか、真理については特に、牧師は注意を払います。真実は全て神から出ていることを理解した上で困難の解決は神ご自身の働きにゆだね人々もまた神の働きを信じることを通して良心が芽生え、神に基づく良心が神の使命にふさわしく牧師を整えることに牧師自身が信頼しているか、耳の痛いことです。ここでひと呼吸おきます。

 6節までは実はパウロを批判する者への弁明だと考えられており、1節2節はまさに弁明です。3節4節は批判者が陥る心の動きをはっきり書いています。「福音に覆いがかかる」とは、福音の力は知っているし神の存在やキリストに対する尊敬や信頼を持っているがそれ以外にも信頼するものがあって、キリストを完全に自分のものとすることができないという意味です。4節の、キリストが神の似姿であることを理解できないのです。

 5節6節は牧師・信仰者ともに自分の信仰を完全にするために必要な在るべき姿を語ります。伝道は仲間を増やすためではありません。またキリストの宣伝でもありません。私自身に置き換えて言うならこうなります。キリストが語ったことを信じる時、私がキリストを代弁するのではなくむしろキリストが私を代弁します。私がキリストについて皆さんに語っている言葉は、単なる聖書に関する知識や教えの伝達ではなく、一緒に信仰生活を過ごす中で、私がその言葉に服従しているかを皆さんは知ります。

 私が語った言葉で自ら一喜一憂しつつも喜びにあふれていくなら、私がキリストについて語ったのではなく、キリストが私に語りかけ、私を整えていることを悟るでしょう。キリストが語ったように神は存在し今も私たちを支配し救いへと促しておられます。伝えた言葉に応じていつの間にかキリストの語ったままに生きることで、キリストに仕えていると言えます。

 伝道のもたらす実りは牧師の特権ではなくキリストを信じる全ての人に及ぶ真実であり、伝道する者はキリストが代弁して下さる人生に入るのです。このキリストは私たちを常に主なる神のもとへ近づけます。神は光でありキリストの御顔に光が輝いているからです。私たちの人生も輝きます。死と罪にからまる闇から解放されて、人間を照らす光である命のキリストに従い、苦しみの渦中にあっても命を得ましょう。

 毛呂教会 澁谷弘祐牧師
(しぶや ひろすけ)




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