2022年3月のみことば

互いの足を洗う

 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである
                   (ヨハネによる福音書13章16~17節)

 1年の巡りをもって、受難節を迎えました。この時期に、ヨハネによる福音書13章の1~20節の洗足の記事は、教会でよく読まれます。ここで主イエスがなさったことは、普通の意味で死を迎える人の振る舞いとは、まるで違います。普通、私たちは、死んで行くときには、どんな人でも、いささかなりとも心の動揺を覚えます。しかし、主イエスは、御自分が父のみもとから来て、父のみもとにお帰りになる時が来たことを思い、霊的には最も高められ、力に満ちていました。そして、父なる神が御自分に全ての被造物をお委ね下さったことを思い、食事の席から立ち上がると、弟子たちの足を洗い始められたのです。

 私があなた方の足を洗ったように、あなた方も互いに足を洗い合いなさい。
 主イエスは最後の晩餐の席上、上着を脱いで、たらいに水を汲み、弟子たち一人一人の前に身を屈めて、彼らの足を洗われ、腰にまとった手拭いでふきはじめたのです。このなさりようは、当時、奴隷に課せられた最も卑しい仕事の一つとされていたにもかかわらず、主は敢えて驚く弟子たちの前でこのご奉仕をなさったのです。

  「足を洗う」行為の最も深い、第1の意味は、主イエスの十字架による罪の贖いを意味しています。弟子たちの足を洗うことによって、彼らの罪が洗い清められる、主の十字架による洗い清めを意味します。しかしながら、この事が起こっていた時、ペトロをはじめ弟子たちは、この出来事の意味を全く理解していないのです。主イエスのへり下りを、単に人間のレベルでしか受け取っていません。主イエスがここで、人間としてではなく、神であられ、神の独り子であられながら、身を低くして世に下られ、私たちの僕として振る舞って居られることを、まったく理解しておりません。

 高きにいます神が、人となり、僕となられたのです。つまりこれは、十字架によるただ一度限りの罪の赦しを意味しているのです。それがペトロ自身のためでもあること、彼の罪の赦しのためでもあること、従って、今ペトロの為すべきことは、イエスのご奉仕をただ感謝して受け入れ、自分の汚い足をそのまま差し出して洗って貰うことでしかないことを、彼は全く理解していません。だからこそ、この時、弟子たちは、主イエスは、仕えあう人間関係を言葉と麗しい模範をとうして教えられたと理解することがせいいっぱいであったと拝察いたします。

 確かに、「足を洗う」行為の第2の意味としては正しい理解です。14節「互いに足を洗い合え」は、「互いに愛し合え」ということです。教会内で、この世で、遣わされて隣人に主の愛を証することをも含めて理解することが出来ます。さらに、教会内でのこととしてだけでなく、更に私たちがこの世に遣わされて、隣人に主の愛を証することをも含めて理解することが出来ます。そしてこの戒めは、あらゆる人間生活の中で、必要となる大事な戒めです。

 ところが、生まれながらの私たちには、隣人を愛することに於いて破れ悲惨な思いをすることが多いと認めざるを得ないのです。私たちが自分自身の善良な努力や性質に期待して、隣人に仕えることが出来ると思うことは主イエスの清めを必要としない人間を主張することではないかとも思います。主イエスは、人の心の中に何があるのかをご存じです。ペトロにせよ、ユダにせよ、或いは私たちにせよ、その中にある、主イエスを裏切らずにはおれない、親しい人々を裏切らずにはおれない、実に自己中心的な人間の本性そのものを、主イエスは鋭く見つめて居られたのです。

 3年目の受難節を迎えても新型コロナウイルス感染の終息は見えない状況で、ただいま、感染拡大は第6波を迎えています。この3年間、私たちは家庭・教会・社会に在って様々な艱難に出会い、立ちつくしています。感染拡大防止にために、どうあるべきかから始まり、何を選択するのか、私たちの人を愛する生活は何によって立つことができるのかを突きつけられてきました。そして、今、この世界が隣人を愛することに於いて惨めに破れていることを認めざるをえない状況にあるのです。

 確かに、自分が好きな人なら愛することが出来ますが、愛せない人の足を洗うことは困難であることを思い知らされたのです。だからこそ、主の十字架を仰ぎ見るしかない時を過ごしたのですが、そのように追い込まれて、初めて、主がここで語っておられる幸いが何であるかを理解し、自分のものとすることが許されている事に気づかされます。つまり、主が麗しい模範を残されたからと言って、真似出来るものではないのです。

 この事を突き付けられたとき、聖書は16節以下「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」と語るのです。弟子たちや、後代の私たちは、それをお手本にして生きれば良いと考えますが、人を愛することは生易しいことではありません。主は、自らが僕の僕となられ、僕である私たちの足を洗って下さいました。主はこの主と僕の関係、遣わす者と遣わされた者との関係の中で、私たちを世にお遣わしになるのです。

 ただのお手本とそれを真似る人の関係ではなく、私たちが主を信ずるよりも先に、主が私たちを愛し、十字架にお架かりになったという関係です。私たちの信仰や決断よりも先に、既に主が十字架を担う決断をし、実行に移しました。もし私たちが、どのような試練の時にも、この主の十字架の愛を信じて互いに愛し合うなら、あなた方は幸いであると主は言われたのです。その関係があたかも存在しないかのように、その外側にいて互いに足を洗い合うことは、人間には不可能なのだということです。

 私たちには、隣人を愛する力はないのです。私たちが自分自身の善良な努力や性質に期待して、隣人に仕えることが出来ると思うことは、この時のペトロと同様に、主の清めを必要としない人間を主張することになりましょう。ここには、神がイエス・キリストに於いて私たちに与えて下さった可能性しかないのです。つまり人間があまりにも悲惨な存在である故に、主の十字架の愛により頼まなければなりません。

 先達の神父・牧師たちは、人は深い絶望の淵に立たされて、初めて神を求め、神を知るようになると言いました。18節以下は、この問題について熟考させるものがあります。ユダは自殺しましたが、ペトロは自分自身には絶望しても信仰によって神に立ち帰りました。ここで聖書が明確に語っていることがただ一つだけあります。それは、主がユダの裏切りを知っていた上で、彼を選んだのです。預言が成就して人類の救いが実現する為にユダを選んだのは、決して主の眼鏡違いではなかったのです。

 神の御子である主イエスは、人の心の中に何かあるかをご存じです。ペトロ、ユダ、私たちにせよ、主イエスを裏切らずにはおれない、親しい人々を裏切らずにはおれない、真に自己中心的な人間の本性そのものを、主イエスは鋭く見つめて居られたのです。主イエスが私たちの心の隅々まで見透かして居られるという事は、何とも恐ろしいことですが、神によって底の底まで、全て見透かされているなら、もう逃げ場はないからです。しかしながら、そこで他者の足を洗う人間関係を築きなさいと言われることは、何と大きな平安を与えてくれる事でしょうか!
祈ります。

小川教会 末 永廣牧師
(すえ はるひろ)





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