2022年6月のみことば

あなたは、わたしに従いなさい

 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
                   (ヨハネによる福音書21章20~23節)

 神と人との関係は、神の力から造りだされる関係です。人は、苦しみや悩みの時に、神に祈って助けを求めます。けれども、それは人間の叫びや悲鳴のようなものです。神からの働きかけと呼びかけがなければ、神との関係、神との交わりは成り立たないのです。神からの語りかけを聞いて、神に答え、神と共に歩み始めるのです。わたしたちに先立つ神の働きを「神の選び」と、言います。この神の先立つ恵みに対する応答が信仰です。

 信仰によって、わたしたちが受ける恵みというのは、恵みの主イエス・キリストです。わたしたちは、キリストなくして恵みを受け取ることは出来ません。恵みを受けるということは、イエス・キリストを主として迎えること、イエス・キリストに従うことにほかなりません。

 ヨハネによる福音書21章20節から23節は、ペトロと主イエスの愛しておられた弟子と言われている二人が登場して来ます。15節以下に記されているように、ペトロは三度、主イエスから「わたしを愛しているか」と、問われたことで自分が三度も主イエスを拒んだ人間であることに悲しみを深くしたペトロでした。このペトロに、「わたしに従いなさい」と、主イエスは言われたのです。この主イエスのお言葉は、三度の否認の記憶をぬぐい去らせようとする恵み深い愛であり、愛は、ペトロに職務を与えたのです。

 主イエスが、「わたしの羊の世話をしなさい」と、言われたように、ペトロにとって、それはキリスト者の群れを牧すること、キリストの見体なる教会に仕えることでした。それは、同時に投獄と殉教への道でもありました。わたしに従いなさい・・・この時の主イエスのお言葉に、ペトロは愛の心に満たされるような気持でいたのではないかと思います。主イエスの御後について行こうとしているのです。

 ところが、ペトロは振り向くのです。振り向いたのです。何故、振り向いたのでしょうか。それは、主イエスの愛しておられる弟子がついてくるのを見たからです。ヨハネによる福音書は、どこまでもこの弟子が誰であるのかを明らかにしていませんが、おそらく、21章2節に出て来るゼベダイの子たちの一人であろうと考えられています。ここでは、「あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である、と記されています。これは13章21節以下に書いてあることです。主イエスが、弟子のうちの一人がご自身を裏切ろうとしていると言われたとき、それが誰であるか、ペトロはこの愛弟子に尋ねさせようとして合図をした、目配せをしたのです。

 愛弟子が主イエスの一番近くに座っていたことが分かりますし、ペトロの親しい友人であったこと、主イエスに対してペトロと同じように深い関わりの中に置かれていたことが窺われます。そのため、この主イエスの愛する弟子の将来が、心にかかっていたのだと思います。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と、ペトロは尋ねるのです。

 神学者カルヴァンは、次のように述べています。「このペトロの中に、わたしたちの好奇心の例を見る。その好奇心は、単に余計なものであるばかりではなく、有害なものであり、わたしたちは、他の人たちを気にかけるあまりに、自分のつとめを果たすことから遠ざかってしまう。」

 ヨハネによる福音書は、ペトロの好奇心から「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と、尋ねたとは書いておりません。理由は何も書かれていないのです。しかし、このカルヴァンの言葉は、よく引用されると言われています。多くの人たちが、自分自信に思い当るところがあるからではないかとも言われます

 好奇心は悪いことではありません。けれども、このような場合の好奇心は、単純に興味を持ち面白くて覗きこむのとは違っています。自分と比較しての好奇心、自分にこだわることから生じる好奇心であるからです。主イエスは、ペトロに対してきっぱりと言われるのです。「わたしの来るときまで、彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 あなたには何の関係もないことだと、言われるのです。他人に対して無関心であることが罪であると言われます。しかし、ここでは反対に無関心であれ、と言われるのです。人はどうでもいい。まず、自分自信のことを考えよと、言うのです。わたしたちは、他の誰に対しても無関心であっていい。ただ、感心を注がなければならないのは、主イエス・キリストであることを示されるのです。主イエスは、「彼が生きていることを・・・」と、言われました。生きていることというのは、留まるという意味の言葉です。

 ヨハネによる福音書において、多く使われている言葉です。その一つに、15章のぶどうの木の譬えがあります。「わたしはまことのぶとうの木、・・・わたしにつながっていなさい。と、また、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、と言われています。口語訳では、わたしの言葉が、あなたがたに留まっているならば、と訳されています。どこに留まるのか、どこに留まり続けるのか、・・・・・教会の中に留まるのです。留まっているのです。礼拝に繋がり続けるのです。教会に、礼拝に繋がるとき、わたしたちは皆、主イエス・キリストの中に留まっているのです。

 わたしたちは、自分が罪によって滅びるべき者であるにもかかわらず、神がキリストの十字架の死という大きな犠牲を払って、わたしたちを救おうとされたこと、それほどの愛が注がれたことを知っています。知らされています。それでも、信仰者であっても、弱さや迷いがつきまといます。信じ切れない弱さを持っています。ペトロと主イエスの愛する弟子の一人ひとり、与えられた務め、使命は異なっています。わたしたちもまた、ペトロのように「あの人はどうなるのでしょうか」と、問うべきではない。どのような形であっても、救われて福音に生かされて、主イエスの命じられたところで、人々に出会って行くのです。

 何よりもすべての人が救われて、共に礼拝に繋がることを願い、福音を伝えて行くのです。
 「あなたは、わたしに従いなさい」
 わたしたち一人ひとりの歩むべき道を、正してくださる恵みの御言葉、絶えず、わたしたちを赦し愛してくださる神のもとへ、主イエスのもとへ招いてくださる励ましのお言葉です。

越谷教会 棚橋千恵美牧師
(たなはし ちえみ)





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