2022年7月のみことば

この御子こそ

 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
                   (テサロニケの信徒への手紙一 1章16~10節)

 9節10節「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」

 テサロニケのクリスチャンたちは、教会に行く前は、ただ虚しく偶像を信じ拝んでいたのでした。テサロニケには多くの神々があり、人々の崇敬を集めていたのです。ギリシャの神ディオニソスやエジプトの神々イシス、オシリス、セラピス、そしてフルギアの神々ビルスが信心を集めていました。そして、ローマの皇帝も神だったのです。けれど、そういう中にあっても、神はあなた方を選び、多くの滅びゆく偶像の中から天の神、主イエス・キリストを信じるように導かれ救い出してくださったのだから感謝しなさいとパウロは教えました。  
 
 考えてみると、これは日本人にも置かれた状況がよく似ているのではないでしょうか。今日、道を歩けば、道端にかわいらしい石のお地頭さんが赤いよだれ掛けをして立っており、まるで子供たちを守っているようです。縁日になると神社に多くの人々が集まりにぎわいます。お寺も夏のお盆には以前は、屋台が出て子供たちや親御さんが集まっていました。テサロニケと良く似ています。昔、「千と千尋の神隠し」という宮崎駿監督の映画があり、最近見て驚きました。日本全国から神様が道後温泉に集まり宴会を開くのです。あんなに日本に神様っていたのかしら、と思いましたが、そういえば八百万の神がおられるそうなので不思議でも変でもないのですね。

 私の子供の頃の話、近くに神社があり、不動尊が祭られていました。毎月28日が縁日なのです。その日には多くの人々が集まりました。道路の脇には屋台がずらっと並び、金魚すくいや綿あめ風船等が並んでいました。あの頃はテレビもなく娯楽が余りない時代でした。親に連れられて行ったものです。しかし、今では少しもいいとは思わない。年を取ったせいかもしれないけれど、大人も縁日に来ているのです。

 パウロが語るに「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とあるようにそのような状況の中から、神は招いてくださっているのです。そして、6節にあるように「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」と語っています。彼らはクリスチャンになるためにひどい苦しみを通りぬけなければなりませんでした。テサロニケに住んでいるユダヤ人やギリシャ人は教会に入って信仰を告白することは、当然周囲から圧力を受けるでしょう。

 そこはローマの属州ですから、ローマ皇帝が神なのです。反対する者たちは町のならず者を集めて暴動を起こし、市の役人たちに訴えたのです。そのような目にあっても7節にあるように「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範になるに至った」のです。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケの信徒への手紙一5:16)と教えています。わたしたちは数ある宗教の中から招かれていることは、本当に喜びです。

 あの道後温泉に集まった神様たちは、あれからそれぞれの国に帰って行ったのでしょうか?その地域の人々から信心をうけているのでしょうか。

 主イエスは言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14:6)父とは、天地創造の神であり、アブラハム,イサク、ヤコブの神であり、主イエスの神であり父のことです。人間は生まれながらに罪が内在しており、この罪を十字架の血によって贖われた方が主イエス・キリストです。この罪は人間の根源深くあり、水で注いだぐらいでは清くならないのです。主イエスの十字架での尊い血によって神は贖ってくださいました。パウロは語ります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマの信徒への手紙10:9)

 日本では、これから山の登山が始まります。登山では頂上にたどり着くにはいくつかの登山口があるでしょう。皆準備をして登ります。苦労して山頂に登り、太陽の日の出ほど素晴らしい光景はありません。まるで大きなダイヤモンドが光っているように見えます。しかし、神さまの山に登る入り口は一つしかありません。その道は主イエス・キリストの登山口です。主イエス・キリストを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ないのです。

七里教会 佐々木佐余子牧師
(ささき さよこ)





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