2022年8月のみことば

分け隔てしない

 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。        
                  (ヤコブの手紙2章1~8節)

 ここ最近の気候変動には驚かされます。地球温暖化のためでしょうか。大雨や台風、地震、竜巻、いつ何が起こるか分かりません。それに加えて、コロナBA-5による感染急拡大です。地球のバランスが崩れているように思います。
 人間は「文明」と称して、科学技術の発展を進めて、自然破壊・環境汚染をしてきました。便利さのみを追求したために、地球が悲鳴を上げて、元に戻ろうとしているのかも知れません。それを私たちは、どうする事も出来ません。
 この歪みの問題は、人間関係も同じです。人間社会はいつの時代も、自分の利益を求めて戦争になり、「勝ち組」「負け組」という言葉によって、「貧富の差」が生まれ、大きな問題になっています。

 さて、聖書のヤコブの時代はどうだったのでしょうか。2章1節「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」とあって、差別のあったことが記されています。
 その事を、2章2節〜8節で語っています。金持ちの人を優遇し、貧しい人を軽蔑する過ちです。このような差別は絶え間なく続けられて来ました。黒人差別、カースト制、部落差別など・・・この他にも差別が原因で争いが起こっています。そのような差別が、ヤコブの時代の教会にもあったのです。

 ともすると、ヤコブの手紙を行い中心で「信仰義認」と比べて軽く考える事もありますが、パウロも「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5・6)「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5・14)と語っています。
 大切なのは、自分と同じように隣人を愛する事で、それが「分け隔てする」事の正反対になりますが、この分け隔ては、自分にとって異質なもの、異質な事の全てから起こり、分け隔ての対象となっています。
 他者と自分の違いを知り、理解し、受け止めることが大切で、他者と出会う時に自分を知り、自分に気付く事が出来ます。

 3歳児のAくんは、いつも友達の遊んでいるおもちゃを横取りしたり、邪魔をしていました。そのAくんが、「おもちゃ取られた」「邪魔された」と、訴えてきました。その時、担任は「Aくんもしていなかった。」と尋ねると、考え込んでいました。そこで、担任が、互いの思いを確かめると、仲直りが出来ました。
 争いには相手がいます。大人になると、自分の弱さや過ちに気付いても、互いに認めることは難しくなります。毎年8月の第1聖日は「平和聖日」として礼拝を守り、平和の実現のために祈りを捧げていますが、2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵略が始まりました。
 まさかの出来事でしたが、5ヶ月が過ぎ、世界中を巻き込んで終わりが見えなくなってきています。「なぜ戦争になったのか」を考えるときに、その背後にあるのは「自己絶対化」であり、他者への差別ではないでしょうか。

 「主イエス・キリストを信じながら」分け隔てをする「自分」は、なんとみじめな存在でしょう。そんな私たちと、主イエスは共にいてくださいます。分け隔てをする私たちの間に、十字架の主は共にいてくださり、私たちを繋いでいてくださいます。
 平和を覚えて、共に祈り、「主イエスが愛されるように」互いに愛し合う歩みをしましょう。

埼玉新生教会 平澤昇牧師
(ひらさわ のぼる)





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