2022年10月のみことば |
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 (ヘブライ人への手紙11章1~3節) |
子どもの絵本に『かみさまとこども』という、小さな兄弟が神様に会いに行こうとするお話があります。夜、眠りにつく頃ベッドの中で、二人の兄弟が話を始めます。「ねえ おにいちゃん かみさまにあったことある?」「ないよ アンナは?」妹もあったことはありません。二人は神様に会いたくなり、神様を探しに出掛けます。暗闇の中、夜空に輝く月や星に「あなたは かみさま?」と尋ねます。「いいえ わたしは かみさまに つくられたもの」と言われます。 次の日も、二人は神様を尋ね求めます。明るく照らす太陽、地面いっぱいの草花、空高く飛ぶ鳥、突然空から降って来る雷、雨の後に空に輝く虹、草原を元気いっぱい駆け巡る白馬、大きな木、彼らが出会うすべてに「あなたは かみさま?」と尋ねたものの、「いいえ わたしは かみさまに つくられたもの」とみんな答えます。神様を探しに出かけたものの見つからなくて、子ども達は疲れ果てて、木にもたれかかって眠ってしまいます。親が心配して捜しに来た時に、二人から神様を探していたことを聞くのです。 教会の信仰を言い表すものの中に、使徒信条があります。使徒信条は、初めに「我は天地の造り主」を信じることを告白します。天地は、神様によって造られたもので満ち溢れています。天地創造の物語は、神様が言葉によって天地を造られたことを伝えています。神様は言葉を通して、造られたものと交わりをもとうとなさいます。自分達だけで神様が造られた世界を見ても、まことの神様に辿り着くことはできません。神の言葉を聞くことによって、神様とお会いするのです。お会いすると言っても、神様は目に見えないお方です。けれども、神様がどのようなお方であられるのか、聖書のみ言葉を通して、私達は目に見えないのに神様を信じる者とされています。 神様は、六日間かけて天地をお造りになられました。神様は造られたすべてのものをご覧になり、「極めて良かった」と仰いました。造られたすべてのものは、神様がご覧になられると、とても良いものでありました。この言葉に、造られたものへの神の愛がはっきりと示されているのです。神様は、天地を創造なさった後、お造りになった世界を顧みられないようなお方ではありません。今も生きて働いておられ、天地の始まりから終わりの時に至るまで、創造の御業に携わっておられます。神様が今も生きて働いておられるので、この私をも神様は造ってくださったということを知るのです。この私をも神様はお造りになられ、「良し」と仰ってくださったのです。 ある人が、英語で「good」(良し)と言われる時に、そこから「God」神をとったら、0になると面白いことを発見しました。神様に「良し」とされて造られた人間から、神の存在をなくしたならば、人間の存在価値はなくなるということです。造り主の存在は、それほどに偉大なのです。私達は、造られたものであることを忘れてはならないのです。誰も、造り主であられる神様にはなれないのです。 ところが、自分達は何でもできる、何でも造り出せる、そう錯覚してしまう人間の愚かさがあります。いつの間にか、本当の自分の姿を見失っていくのです。私達は、確かに色んな事ができます。色んなものを造り出せます。しかし、それはすべて、すでにある素材を使って造っているに過ぎないものです。何もないところから、何かを生み出す力は人間にはありません。何もないところから、言葉によって造ることがおできになるのは、神様しかおられません。ここに、神様と人間の大きな違いがあります。人間がいくら神様のようになろうとしても、なれないのです。それなのに、人間がこの区別を曖昧にしてしまうと、人間が神を勝手に造り出し、まことの神以外のものを拝もうとし、造られたものの中に神を見出す過ちを犯してしまうのです。 はじめに、絵本の話をしました。絵本の終わりは、親から子ども達に向けられた言葉で終わっています。「かみさまに あいたいと おもうとき こころのなかで かみさまに あえるんだよ おまえたちがみた どんなものよりも それをおつくりになった かみさまは もっと もっと すばらしい」。神様がどこにいらっしゃるのか分からず、必死に探し回っていた子ども達に対して、神様に会いたいと願った時に心の中で、もうすでに神様に出会えていることを教えます。神様は私達の心の内にも、今も生きて働かれるお方です。お祈りを通して、私たちは神様とお話し、お会いします。 神様とお会いするもっと確かなところは、礼拝の時です。神様の言葉を正しく聴くために、神様は礼拝をお定めになられました。天地を造られた神様が、第七日目に休まれ、その日を安息日としてくだいました。主イエスが死から復活なさった後は日曜日に、人間がすべての業を止めて、神様を礼拝する日と定めてくださったのです。神様によって造られた人間は「良し」とされ、神様と人格的な交わりをなすものとされました。子どもも、大人も神様を礼拝することを通して、神様に仕え、神様に感謝をささげることによって、まことに人間らしく生きることができるのです。そのことを、天地の創造主であられる神様が、何よりもお望みになっておられます。 |
和戸教会 佐藤さゆり牧師 (さとう さゆり) |
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