2022年11月のみことば

神の業を見る

 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
                (ルカによる福音書5章17~26節)
    
(2022年7月31日の福島県・涌谷教会礼拝説教です)
                              
 今日の説教題は26節から示されました。
 「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日驚くべきことを見た』と言った。」
 教団議長をしていますと、いろいろな教会に招かれます。招かれた教会の礼拝とその教会の歴史を見て、「そこに神の業を見る」経験をして励まされてきました。

 今年の4月14日東京の赤坂教会135周年記念礼拝に招かれました。赤坂教会135周年の歴史、そこに特別な歴史の歩みを見て驚き、感動をしました。
 赤坂教会は勝海舟と関係の深い教会で勝海舟の敷地に建てられた教会です。
 赤坂教会の牧師は姫井雅夫先生で81歳です。礼拝出席は30名くらいの教会です。午前10時30分からの礼拝ですが20分前に来てくださいと言われていましたので午前10時10分に教会につきした。教会の玄関のところで大体その教会の牧師が待っていて迎えてくれるのですが、姫井先生は玄関で迎えてくださらなかったのです。

 受付担当の教会員が礼拝堂の一番前の席に案内されました。
 エレキギターとギターとピアノで元気な賛美の歌が鳴り響いていました。
 姫井先生をどこにと探しました。そして見つけました。81歳の姫井先生がエレキギターを弾いて歌っているのです。驚きました。この礼拝前の賛美に導かれて礼拝が始まりました。「今日驚くべきことを見た」と言える感動の礼拝となって行きました。

 勝海舟がキリスト教に出会ったということは知っていました。しかし、赤坂教会との強いつながりがあったことを知らされました。伝道熱心で医師のウイリス・ノルトン・ホイットニーが勝海舟の土地に病院を建てました。そして、待合室で礼拝を始めました。1886年のことです。そして、この礼拝を始めた日が赤坂教会の創立記念日となりました。

 勝海舟はこの病院の待合室の礼拝に熱心に通っていました。
 伝道熱心なホイットニー医師の娘クララと勝海舟の息子梅太郎と結婚します。このクララから勝海舟が死を前にして「わたしはキリストを信じる」と告白したことが伝えられています。勝海舟は信仰告白をして召されていきました。病院は貧しい人からは治療費をもらわないために経営が行き詰まってしまいます。

 勝海舟の土地を購入して赤坂教会が建てられています。この教会の歴史と勝海舟の働きの中心にキリスト教信仰が根付いています。博愛主義で優れた剣術家ですが刀には紐でしっかり撫すばれていて刀が抜けないようにしていたということです。赤坂教会の歴史と勝海舟の働きの中に神の業を見ることができました。

 教団議長として第五日曜日に涌谷教会の礼拝の奉仕をさせていただいてきました。
 あの事があって、教会の危機の中で、御言葉に聞き、御言葉に養われる喜びを感じて礼拝を捧げている涌谷教会の礼拝に来るのが楽しみでした。『今日驚くべきことを見た』と言える礼拝を捧げ続けられています
 御言葉に聞き、御言葉にすがり、御言葉によって生かされる信仰者の礼拝、この涌谷教会の礼拝に「神の業を見た」と言える恵の礼拝を捧げ続けています。

 今日の聖書はペトロの家での出来事が記されています。沢山の人がペトロに家に殺到しています。主イエスを多くのひとが取り囲んでいます。しかし、この沢山の人々の中に主イエスを信じる信仰を見ることができません。
 主イエスを見たのです。主の力ある技を見たのです。多くの病人が癒されるのを見たのです。そして、主のところに人々が殺到しているのです。主イエスを見た、主イエスの業を見た。しかし、主イエスを見たのに、主イエスを信じる信仰がないのです。結果として主イエスに敵対する人々、罪の深みに沈んでいる人々の姿が浮き彫りにされていきます。

17節 「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

 家が人でいっぱいで、家の中に入ることができず、屋根の瓦をはいで、中風に苦しむ人を主イエスの前に釣り下ろしました。この常軌を逸した行動が、主イエスの心を動かし、中風の人が癒される物語が17節以下にしるされていきます。この出来事が起こった場所はカフェルナウムのペトロの家と思われます。

 ルカはまず初めに「ファリサイ派の人々と律法の教師たちが座っていた」と記します。この人々は神に対して熱心な人々です。

 ローマの信徒への手紙10章2節~3節
 「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」パウロの言葉です。神に熱心です。しかし、神に熱心でありながら、神の義を求めないで自分の義を求めているとパウロは語っています。神の義すなわち「神との正しい関係を求めず。自分の正しさを追い求めることが第一となっているというのです。
 そして「神に熱心な人々」が激しく主イエスを批判し、殺そうと策略する者になって行くのです。神に熱心な人々が罪の深みに沈んで行くのです。

 このパリサイ人と律法学者が主イエスのそばに座っているのです。ペトロの家は人々であふれて立錐(りっすい)の余地もないのです。主イエスを見ているのです。
 しかし、神の業として見ていないのです。病気の癒しを求めて主イエスに殺到しています。しかし、自分たちが罪の赦しを受けなければならない罪人であるとは思っていないのです。何よりも主イエスを信じる信仰を見ることができないのです。
 この罪人のただ中に「中風の者が釣り下ろされる」のです

18節~19節 「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」


 常軌を逸した熱心によって主イエスに出会う人々が記されていきます。中風で苦しむ人を主イエスのところに連れてきたのです。戸口まで一杯で家の中に入れることができません。中風に苦しむ者をどうしても主イエスに合わせたいのです。必死です。そして、あきらめないのです。中風の苦しみを自分の苦しみとして痛み、何としても主イエスに合わせたいと常軌を逸した行動にでるのです。
 屋根に上り瓦をはいで人々の真ん中に主イエ前につり下ろしたのです。

20節 「イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」

 なんとしても中風者を主イエスのところへ連れていきたいと必死で運んできた人々の信仰見て罪の許しの宣言をなさるのです。
 主イエスは罪の赦しを宣言する神なのです。

 とても重要なこと「主イエスが直接何も介さないで罪の赦しの宣言」をなさっていることです。罪祭など罪をゆるしは動物を捧げて、祭司を介してされます。祭司は動物の肉を裂き血を流し焼いて罪の赦し儀式をするのです。
 しかし、主イエス直接に「罪の赦しを宣言される神」であることが示されています。
 ペトロの家の中に神が臨在されておられるのです。

21節 「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」

 律法学者たちやパリサイ人は「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ、神の他に誰が罪を赦すことができるのか」と心の中でつぶやくのです。
 「罪の赦しを宣言」をされることによって、まさに、ペトロの家の中におられるお方は「どなたであるか」ということが強烈に示されているのです。ペトロの家に神が臨在されておられるのです。ペトロの家にいる罪人たちのただ中に神が臨在されておられるのです。

22節~25節 「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。」

 「病の癒しの中に罪の赦し」が記されています。二つの事が一つにされて語られているというところに注目させられます。癒すということと赦すということが主イエスにおいて一つの事なのです。
 「人よあなたの罪は赦された」と宣言された主イエスは同時に『中風の人に起き上がり床を担いで家に帰りなさい』と病の癒しを宣言されるお方です。ルカ福音書の特徴は「罪の赦し」と「病の癒し」が一つの事として語られているところにあります。
 新約聖書で「癒す」と訳されている言葉は同時に赦すと訳すことができます。赦しと癒しは一つのことです。主イエスは罪の赦しを宣言される神です。この神の臨在に圧倒され、驚き、恐れ、そして「今日、驚くべきことを見た」と神を賛美する歌が沸き起こっているのです。

26節 「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日驚くべきことを見た』と言った。」

 今日神の驚く御業を見たのです。神の臨在の中で私たちは神の驚く御業を見る事が出来るのです。主イエスが、神がわたしたちの罪を背負って十字架に死んでくださり、「あなたの罪は赦された」と宣言をしてくださるのです。そして、復活の命をいただいて、永遠の命の世界につながる喜びをもって生きることができるのです。
 「罪の赦しの宣言を受ける時、どのような病や苦難の中にあっても癒されて「さあ起き上がって歩いていきなさい」と病や苦難を克服して立ち上がって歩いていくことができるのです。
 この神の御業を。礼拝において、毎週の礼拝において、聖霊なる神のご臨在の中で神の驚くべき御業を見続けることができているのです。
 恐れと驚きの中で賛美の歌が沸き起こる礼拝を捧げ続けることができるのです。

越谷教会 石橋秀雄牧師
(いしばし ひでお)





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