2022年12月のみことば


大きな喜び


 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
                  (ルカによる福音書2章1〜20節)


 この季節、町の様子はクリスマス色に染まります。商店街には大きなクリスマス・ツリーが飾られ、店内には楽し気なクリスマス・ソングが流れ、世の中のクリスマスは明るく楽しい雰囲気で彩られます。

 最初のクリスマスは、どうだったでしょうか。聖書の御言葉は語ります。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」

 当時、イエスさまが御生まれになったユダヤの地は、ローマ皇帝アウグストゥスの支配下にありました。ローマ帝国の支配は、ラテン語で「パックス・ロマーナ」、すなわち「ローマの平和」と言われ、その平和は、ローマ帝国の強大な軍事力によって保たれていました。だから、その平和は、武力で捻じ伏せることによってもたらされる平和であり、すべての人々が、心から喜んで、平和に生きていたという平和ではありません。特にローマの市民権を持たない周辺諸国の人々は、差別され、また抑圧されながら、生きなければなりませんでした。そのような人々の内に、ヨセフとマリアがいたのです。

 二人は、天使のお告げによって、神の子を宿すことを知り、また信じていました。そのような中、ヨセフは、出産間近のマリアを連れて、住民登録をするために、長い旅に出なければならなくなりました。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

 当時、ベツレヘムの町の宿屋は、住民登録にやって来た人々で一杯だったのでしょう、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と言われています。でも、出産間近のマリアのお腹は、人目にも分かるほど大きかったに違いありませんから、宿屋の主人にしても宿泊客たちにしても、誰か一人でもヨセフとマリアを気にかけてくれたら、何とか宿泊する部屋は確保できたのではないかとも思います。あるいは、ヨセフとマリアに人並み以上の経済力があれば、お金を出して交渉して、どこかに泊まることができたかもしれません。

 しかし、二人が生まれたばかりのイエスさまを、飼い葉桶に寝かさざるを得なかったということは、誰一人として二人を気にかけてくれる人はいなかったということ、また、二人が、かなり貧しい経済状況だったのであろうということを、明らかにしています。

 このように、最初のクリスマスは、決して明るいとは言えない、また楽しいと言うこともできない、むしろ、何とも冷たいと言うか、世知辛いと言うか、この世の中の暗さの中で起こった出来事であると言えるのではないでしょうか。このような世の中の暗さ、冷たさ、世知辛さは、私たちの時代にも変わることなく存在しています。

 しかし、神は、誰一人として気にかけてくれないヨセフとマリアにこそ、その独り子なるイエスさまをお授けくださったのです。なぜなら、イエスさまは、彼らの悲しみや嘆き、苦しみや悩み、その痛みや涙を、共に悲しみ、嘆き、共に苦しみ、悩み、共に痛み、泣くために、そして、そこから救い出すために、おいでくださったからです。

 イエスさまの御誕生から間もなくのことでしょうか、その知らせが、ある人々に、伝えられました。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」

 イエスさまを授かったヨセフとマリアが、貧しい人々であったように、羊飼いたちも、貧しい人々であったと考えられます。彼らは、羊の所有者だったのか、雇人だったのかは定かではありませんが、所有者であっても、人を雇えずに自ら羊の番をしなければならなかったようですし、雇人であれば夜を徹して泥棒や狼から羊を守るという危険な重労働に従事しなければならなかったわけですから、彼らは決して経済的に豊かであるとは言えない、むしろ貧しく、かつ社会的地位も低いと考えられるような人々だったのだということが分かります。しかし、イエスさま御誕生の知らせは、まず、そのような人々にもたらされたのです。

 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」今日、注目したいのは、天使がイエスさま御誕生の出来事を「大きな喜び」と告げたというところです。なぜ、イエスさまの御誕生が大きな喜びなのか。

 イエスさまは、その御生涯において、多くの言葉を御語りになり、多くの御業を行われましたが、この「大きな喜び」は、イエスさまの地上の御生涯の結末、その結論を知って、初めて理解できることではないかと思います。その御生涯における最も重要な出来事こそ、イエスさまが十字架にかけられて死なれたということと、その死の三日目に復活されたということだからです。

 なぜ、イエスさまは、十字架で死ななければならなかったのか。なぜ、イエスさまは、三日目に復活されたのか。なぜなら、イエスさまは、その死によって、私たち一人ひとりの人間が持つ、悪い思いや考え、悪い言葉や行い、これを聖書は罪と呼びますが、この罪に対する神の怒りと裁きを、一身に引き受けて死んでくださったからです。本当は、私たち自身が、この罪のゆえに死ななければならなかった、でも、その死を、イエスさまが身代わりとなって引き受けてくださったのです。

 それゆえに、イエスさまを信じる者には、罪の赦しがもたらされます。また、イエスさまは、その復活によって、私たちの人生が死によって終わらずに、死を超えてなお永続するものとなるように、命の道を開いてくださったのです。それゆえに、イエスさまを信じる者には、復活の命、永遠の命がもたらされます。これら罪の赦しと永遠の命が与えられるゆえに、イエスさまの御誕生は、その知らせを受ける者にとって、「大きな喜び」に他ならないものなのです。

 現代も、当時と同じように、決して明るいとは言えず、また楽しいとも言えない、むしろ、何とも冷たい、世知辛い、この世の中の暗さを思わずにはいられません。コロナ禍に、戦争に、世界情勢の不安定さに、その暗さは更に増しているかのようにも感じられます。しかし、私たちを救うためにイエス・キリストが御生まれくださった、そして、私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えてくださったという、この「大きな喜び」を覚えて、私たちはクリスマスの時を過ごしたいと思うのです。 




 熊谷教会  大坪直史牧師
(おおつぼ なおふみ)




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