2023年1月のみことば

理不尽な出来事に対する信仰

  さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」
                (マタイによる福音書2章16~18節)
    
 それぞれの教会では、クリスマスに関する喜びの集会を終えられたことでしょう。今後あるとすれば、クリスマス・シーズン最後の「1月6日・公現日」関連の集会だけと思われます。
 クリスマスは、他でもなく、神の子イエスの誕生を感謝し、祝う喜びの出来事でした。
 けれども一つだけ、神の子誕生を巡って悲しい・厳しい出来事があったことを忘れるわけには参りません。それは、ベツレヘムで起きた「幼児虐殺」の出来事です。
 この出来事のそもそもは、東の国(バビロニア?)の占星術の学者たちが、特別の星を見つけて「王の誕生」と理解し、エルサレムに拝みに来たことをヘロデに伝えたことから始まりました。

 学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねると、ヘロデ王は不安を抱いたと記されています(3節a)。何故でしょうか。それは新しい王が生れたとなると、自分の王位が奪われるからです。
 ヘロデ王は、王としては良く治めていたと王と考えられます。例えば、国の飢饉の時には、私財を投げ売って、ローマから食料を買い求めて国民に分配したとか、現在イスラエルに旅行しますと、必ずエルサレム神殿に行き、ヘロデ王が修復した「嘆きの壁」を見ることが出来ます。

 けれど、ヘロデ王は「懐疑心」に関しては他の人の何倍も強く、自分の王位が狙われている気配を感じた時には、直ぐに、息子であろうと、妻であろうと殺して、自分の王位を死守したのです。従って、そのことを知っている民も、ヘロデが何をしでかすか分からないと、これまた不安を持ったのです(3節b)。
 私たちも実際は、ヘロデ王のようなところがあり、「自分が人生の主・王でありたい」と願って生活している時は、自分の王位を妨害する地上の力を排除し、自分中心の生活を守ろうとするのです。
 その後、ヘロデ王は、ベツレヘム近辺に住む2歳以下の子を殺すことによって、自分の王位を脅かす原因を抹殺したのです。
 
 しかし、ヘロデ王の命令によって殺された幼児のことをどう理解すればよいでしょうか。これこそ、ベツレヘム近辺の人々からすれば「理不尽」と言うしかない出来事でしょう。
 確かに、ベツレヘムは小さな村で、人口は精々500人くらいと考えられています。ですから2歳以下となると、実際には10人くらいでしょうか。けれど、こういうのは合計の数ではなく、一人の子どもの死でも、家族親戚と考えれば何十人、つまり村全体が悲しみに満ちたのです。
 この理不尽な出来事、福音書には出てこないと思いますが、もしこの30年後に、主イエスがベツレヘムに伝道に行き、色々な言葉を語られた時、人々は主イエスに向かって、「あなたのお陰で、うちの子が殺されたんです!どう責任をとってくれますか?」と言ったかもしれません。

 また理不尽なことと言った場合、現代にも毎年、何処かで水害や自然災害が起こり、多くの被害を受け、その力の前に人間は無力であることがイヤと言うくらい示されています。これも人間は何も言えないこと、理不尽としか言えない出来事でしょう。
 このようなことに出会うと、時に「神さまはいない」とか、「神さまは何故こんな目に遭わせるのか」ということも多いでしょう。

 しかし私は東北大地震に関する書物で、次のような言葉を読みました。それは多くの方がご存じだでしょうが、岩手県在住の医師であり、ケセン語で四つの福音書を翻訳し、ふるさとの仲間にふるさとの言葉で主イエスの福音を伝えようとされている山浦氏の講演(文章化)でした。

 以下引用の長文は「【なぜ】と問うこと自体意味がない」の項目。
 震災後、多くのマスコミ関係の方がインタビューに来られたが、
「神さまは、東北の実直で勤勉な人々を、なぜこんな目に遭わせるのか?あなたは信仰者としてどう思いますか」という質問ばかりだった。しかし私は、そんなことを考えたこともなかったので、返事も出来ず途方に暮れたと記されていました。
 …さらに続きます…
 気仙の人たちは、とても信心深い人々です。キリスト教徒は少ないですが、みんな熱心な仏教徒です。けれども「何で、阿弥陀様が我々をこんな目に遭わせるのか、なぜお地蔵さまが助けてくれなかったんだ」などとバカなことを言う気仙衆は一人もいません。そんなことは夢にも思わないのです。
 そんな我々に向かって「神さま、仏さまは、人々をなぜこんな惨い目に遭わせるのか」と問うことは極めて悪質です。それは「お前さんたちが拝んでいる神さま・仏さまは何やってんだ」と言っていることにほかならないからです。
 そして彼らが言いたいのは「お前たちが拝んでいる神さま・仏さまは、お前たちを見捨てたではないか」という非難めいた問いかけなのです。
 これは非常に質の悪い言い草です。我々だって満身創痍なのです。心も体も傷だらけなのです。それに塩をすり込むような極めて意地の悪い質問です。人の心を絶望で腐らせる猛毒です。だから、私は怒ったのです。 

 少し長く引用させて頂きましたが、この山浦氏の考え・信仰は、明確に神さまが主語であり、我々は述語の立場なのです。もっと言えば、私たちは、神さまに用いられて生きるのであり、神さまを用いて生きようとすることは信仰でも何でもなく、神さまへの冒涜そのものでしょう。

 最後に、引用させて頂いた本の紹介を致します。
3・11後を生きる  「なぜ」と問わない 
山浦 玄嗣(カトリック信者・医師)
  2012年9月初版発行(翌10月再版発行)
    日本基督教団出版局  800円

岩槻教会 小林 眞牧師
(こばやし まこと)





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