2023年2月のみことば |
テマン人エリファズは話し始めた。 あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが/誰がものを言わずにいられようか。 あなたは多くの人を諭し/力を失った手を強めてきた。 あなたの言葉は倒れる人を起こし/くずおれる膝に力を与えたものだった。 だが、そのあなたの上に何事かふりかかると/あなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる。 神を畏れる生き方が/あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが/あなたの希望ではなかったのか。 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか。 わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている。 彼らは神の息によって滅び/怒りの息吹によって消えうせる。 獅子がほえ、うなっても/その子らの牙は折られてしまう。 雄が獲物がなくて滅びれば/雌の子らはちりぢりにされる。 (ヨブ記4章1~11節) |
1節「テマン人エリファズは話し始めた」と語られております。ヨブも口を切って語り始めました。ヨブは神を冒瀆するような内容を述べましたので、見舞いに来た友人の一人テマン人エリファズも堪り兼ねて話出したのです。テマンは知恵の国として知られており、旧約聖書で知恵とは神についての知恵や人生についての知恵を意味します。彼は「知恵」を代表する者でしょう。三人の中で一番年上で貫録がありました。知恵と合理的な神学との代弁者として、他の2人の友人に比べて一番冷静で客観的で、人生の経験も豊かでありました。それから長い議論に入ります。 ヨブの友人たちは因果応報の原則に従い、人の苦しみにはそれなりの原因がその人間にはあるはずだと言われます。しかし、ヨブは何も非がないのに苦しんでいる、と自分の潔白を主張します。エリファズの最初の議論はヨブに苦難の理由を確信させ、降参して彼の膝を屈させるように計画された議論なのです。この議論はある公理に焦点が当てられています。どんな無実の人間がかつて滅びたか、死すべき人間は神の前に義しく有り得るか、人間は悩むために生まれると神が戒める人間は幸いですということでした。 まず、4章と5章で友であるエリファズが弁論するところから始まって、14章までは第1回の弁論の周期が展開されるのです。友人が語り掛け、ヨブが答えるという形式になっています。それは第6の弁論から成っています。 最初のエリファズの弁論は、他の友人のものに比べて長く書かれてあります。彼は、三人の中で長老格です。ヨブは4章に入るまで、長い沈黙を破って話をしなければならないように迫られました。そこで、友人エリファズは、ヨブの会話にヨブの恐れを感じ取って彼を訓戒し、正しい道に引き戻そうとしました。この議論で人々は能弁でした。その議論は果てしなく続いて行きます。 まず、4章の1節からご覧下さい。4章2~11節はエリファズが因果応報を説いています。1節の後、黙っていられず語り始めます。ヨブの友人たちは思いやりがあり、ひたすら沈黙しています。 2節「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが 誰がものを言わずにいられようか」と、思いやりのある友人エリファズが口火を切ります。それまでのヨブの絶望的な言葉は何か論評を友人たちから求めています。エリファズが思い切って、答えようとします。彼は気配りを差し出します。ヨブは精神的に肉体的にやつれ果てていました。そして、「あなたは疲れ果てています」と言います。ヨブの激しい呪いに等しい言葉を聞いた今、エリファズはヨブが疲労困憊していて、黙ってはいられないと言うのです。ヨブが健康で繁栄していた時のことを思い出して貰うのです。ヨブは不幸な人々に優しくする模範生だったのではないですか、と言います。例え、ヨブが聞くのが嫌だったとしても、彼は言わざるを得ないのでありました。エリファズはヨブを諭そうとしています。 3節では、「あなたは多くの人を諭し力を失った手を強めてきた」と語られます。エリファズはヨブに過去のヨブがどんなであったかを思い返せ、と言っております。手は人間全体を表します。今までのヨブは落胆している人を励まし、力付けて来たのではないのか、と言われるのです。また、「多くの人」は曖昧な表現で年を多く取った人々について、老人のことです。ヨブはかつて多くの人々に対し、その魂を看取る者として力になり、友人の勤めを果たして来ましたが、エリファズはそのことを巧みに持ち出して話の糸口にします。ヨブは敬虔で自分と家族だけのことではなく、魂の看取り手として、常に人を助けることによって他の人々に及んでおり、そこで多くの虐げられた兄弟たちの力と慰めの源となっていました。そして、「力を失った手」は、「弱った手」ということです。 そして、4節には「あなたの言葉は倒れる人を起こし くずおれる膝に力を与えたものだった」と語られます。ヨブの励ましの言葉は、重荷に耐え兼ねて、くずおれ倒れる人々に力を与えて来たと言うのです。ヨブの励ましの言葉が単に口先だけでなく、具体的な実質を伴っていたことを私たちに教えてくれます。例えば、1章1節は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と述べられています。ヨブの敬虔さや清さだけでなく、隣人への具体的な愛の業として表されるものであったのです。 そして、5節では「だが、そのあなたの上に何事かふりかかるとあなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる」ヨブは既に他の人々に教えたことを自分に当てはめることは出来ないと言っているのです。エリファズはかつて他人の苦難を勇敢に慰めることが出来た非の打ち所の無いヨブと、今自分の苦悩に疲れ果て、神を疑い始め、生の不安に駆られているその人と比べて、鋭い目で正しく見ています。しかし、友人エリファズはヨブが観客席から苦難の舞台へ自ら下りて行かなければならなくなった時、ヨブに起こった変革を真剣に受け止めておりませんでした。ヨブは動揺し、「肝を潰して」と訳されています。エリファズは皮肉たっぷりに、また偽善的に行動しました。友人エリファズは疑うというより善意に捉えているのです。「何事か」や「それが」とは、ヨブに降り掛かった災い、苦難のことです。ヨブを襲った苦難は尋常のものではなかったのです。エリファズという人の無神経さに、驚愕の思いでいます。エリファズの発言では現実の上に超然な知者の立場とヨブが苦難の中でもがく実存の人間の立場との違いを見るのです。エリファズはヨブの苦難が尋常のものではないことを承知して、敢えてこのような事を言うことでヨブを励まそうとしました。 そして6節では「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか」と語られるのです。「神を畏れる生き方」とは信仰のことであり、信仰によって立派にこの人生を歩み抜くことがヨブの望みでした。エリファズはヨブが自分の身の不幸を嘆き、自分の誕生を呪い死を願うとは何ということかと言われます。エリファズの言葉は厳しいのですが、背後に、彼の暖かい励ましの気持があったのではないでしょうか。 7節には「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ正しい人が絶たれたことがあるかどうか」と語られます。これは、賞罰応報思想です。エリファズは、ヨブの苦難は人知れぬヨブの隠された罪の結果であり、ヨブが悔い改めて正しい道に戻るなら、神は滅ぼされない、だから悔い改めて神に帰れと勧めているのです。エリファズの言葉はそのような思いを背後に持ったものであります。ヨブ自身も同じ賞罰応報思想は持っていました。ヨブは割り切れぬ現実に神を見失い、呻いて、誕生を呪い、死さえ願う所に追い詰められていました。エリファズは賞罰応報思想は長い人生の観察に基づいていると言うのです。 8節では「わたしの見てきたところでは 災いを耕し、労苦を蒔く者が災いと、労苦を収穫することになっている」と語られるのです。ここで、「労苦を収穫する」とは他の訳では「害悪または邪悪を蒔く」とという意味です。他の人の苦しみの種を蒔くということで、そういう人は、神の裁きによって滅ぼされてしまうのだと言うのです。 そして9節では「彼らは神の息によって滅び、怒りの息吹によって消えうせる」と語られ、10節は「獅子がほえ、うなっても その子らの牙は折られてしまう」と語られるのです。ここでは悪人がライオンに譬えられて、「その子らの牙は折られてしまう」とあるのは、「やがては悪人は滅び去る運命にある」ということです。 最後に、11節の「雄が獲物がなくて滅びれば 雌の子らはちりぢりにされる」と語られるのです。この譬えは、悪人の運命の譬えとしてどういう事を言っているのか。心となるリーダーを失えば、悪人どもの結束などはすぐ潰れてバラバラになってしまうということです。 7~11節までは、因果応報の世界観について記されております。この事をエリファズは主張しました。悪い物を蒔いた者は悪い物を刈り取るというのです。ヨブはなぜ嘆いたのでしょうか。神様がヨブから全ての祝福と賜物を奪ったので、神様に反抗し、神様を呪っている訳ではないのです。ヨブは最後まで神様と共にあり続けるのです。それは、明るい太陽の光の中に神と共にいるというあり方ではなく、ヨブに押し寄せてきた暗黒や絶望の淵に立ち、なおも神様と共にあるのです。そのような在り様がヨブの姿です。ヨブが嘆いている事柄が書かれてあるのです。4章までは、ヨブが所有物を失ったことでなく、この世に誕生したことを嘆いておりました。ヨブには理解出来ない苦難について嘆き始めました。その解決出来ない問題のことで耐え難くなりました。彼は計り知れない問題のことで神の御前に呻きました。神様の御心が分からなくなり、はっきり理解出来なくなりました。それでも神と共に居なければならないのです。共に居る訳ですから神様に対して問いかけ、訴え、嘆いたのです。 エリファズは豊かな経験を持っているために、ヨブに人間がどれだけ神の前に脆く弱い存在であるのだと言います。ヨブもそのような人間だと弾劾します。ヨブを慰めているのですが、ヨブが遭遇している悩み、嘆き、悲しみを解決するほどの信仰と力を持っておりませんでした。ですから、私たちの魂の医者は神様だけであり、神様だけが本当の癒し主で、慰め主であります。神様を畏れて生きて行けば、必ず神様が道を示し導いて下さいます。神様の喜ばれる種を蒔いて行けば、それを稔らせて下さいます。神様が各人に合った報いを与えられるのです。 |
秩父教会 温井節子牧師 (ぬくい せつこ) |
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