2023年4月のみことば

主イエスの復活を信じる者に

  さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 
 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
                (使徒言行録17章30~34節)
    
 世界遺産であるアテネのパルテノン神殿の近くに、アレオパゴス(評議所)の跡地があります。かつてこのアレオパゴスで、パウロは、何か新しい話を聞きたいアテネの人々に、演説(説教)する機会がありました。その説教は、使徒言行録17章22節からですが、30節で「神はこのような(人間の技や考えで造った金、銀、石などの像を神と拝む)無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改める(創造主の神へ向きをかえる)ようにと、命じておられます」と言い、31節「先にお選びになった一人の方(主イエス)によって、この世(わたしたち)を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのこと(イエスは神の子・救い主)の確証をお与えになったのです」と福音を宣べています。

 しかし、32節「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」ので、パウロはその場を立ち去ります。34節「しかし、彼(パウロ)について行って(さらに詳しく話しを聴いたのでしょう)信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」のです。

 「死者の復活」は最も信じがたい出来事です。死者の復活を宣べ伝える時、多くの人はあざ笑うでしょうが、何人かが、信じました。イエス・キリストの復活は、福音として、今日に至るまで、信仰者を通して伝え続けられています。パウロのアレオパゴスでの説教は、その跡地に建てられている石碑(の銅板)に刻まれています。世界中から訪れるアテネの世界遺産を観光する人たちが、アテネの街を一望できるアレオパゴスの跡地に立って、石碑に目をとめ、パウロが「アテネの皆さん」と語りかけた説教によって、今も、何人か信じる者が起こされるようにと祈ります。復活されたお方は、すべての人に、罪を悔い改めるようにと命じられます。このお方が、わたしたちを正しく裁かれる日が来るのです。

 主イエスの死と復活について、四つの福音書が伝えます。十字架につけられ、死んで葬られ、三日目の朝、墓に遺体がなかった。主に出会った…と記すのは共通です。が、そこに居合わせた人や状況は、異なっています。違いがあるのは、墓の番兵たちに多額の金を与えて「弟子たちが夜中に死体を盗んで行った」と言うようにと命じた(マタイ28:12)ように、口裏を合わせることをしていないからです。それぞれの福音書が主イエスの復活を伝えていますが、マルコによる福音書を読むと、16章8節で「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と記して、筆をおいています。その後に、主イエスがマグダラのマリアに御自身を現されたことと、二人の弟子に現されたことを追記しました。マリアや二人の弟子が「イエス様にお会いした」と言っても、信じてもらえません。マグダラのマリアは、以前イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた婦人ですから、嘆き悲しみゆえの幻聴・幻覚にすぎないと思われたでしょう。当時は、二人の成人男性の一致した証言が、証人として認められました。しかし、二人の弟子の証言でも信じてはもらえませんでした。

 それでも、復活された主イエスが、弟子たちを始め、多くの者たちに現れてくださり、教会の迫害者であったパウロにも現れて、それぞれが、主の復活の証人へと変えられて行ったのです。パウロは、キリストの復活を、「最も大切なこととして」(Ⅰコリント15:3)告げ知らせる働きをしました。そして、今、キリスト者の一人一人も、目には見えませんが主イエス様にお会いして、「主イエスは神の子・救い主です」と告白し、証しする者にされているのです。

  「イエスは復活していない」と証明するのは、イエスの遺体を発見することですが、十字架につけた大勢の者たちに、それはできませんでした。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と罵りました。ではイエス様が、もし、十字架から降りて来られたのなら、皆が驚愕して、神の子だと信じたのでしょうか。わたしたちにも、たとえば「この病気を奇跡的に治してくださるのなら、神と信じるのに」というような思いがないでしょうか。神の救いの御業は、人が自分中心に願い求める奇跡的な出来事ではありません。イエス様は、確かに十字架につけられて死に、葬られました。その出来事は、神の子が、すべての人の罪の贖いの犠牲になられたのです。そして、確かに復活されて、罪の結果である死に勝利してくださいました。

 死者の復活と聞いて、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらう…」と聞き流しても、何人かが信仰に入り、ディオニシオ、ダマリスの名前がありました。今も、イエス・キリストの復活を信じる者が何人か起こされ、悔い改めがなされています。久喜復活伝道所の小さな群においても、Mさんが「イースターに洗礼を受けたい」と決心しました。復活は、イエス様が神の子であると確かに示し、十字架の死は、この私の罪を赦してくださる贖いの御業であったと信じました。キリストの復活の命に与る者が、今も、キリストの体である教会で起こされているのです。

 2023年4月は、2日(日)から受難週、7日(金)が受難日、9日(日)が復活日です。十字架と復活の主を信じ、主が再び来られる日を待ち望みつつ、共に喜び感謝して、礼拝をささげましょう。

久喜復活伝道所 山野裕子牧師
(やまの ひろこ)





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