2023年5月のみことば |
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。 (マタイによる福音書16章1~12節) |
夕焼けがきれいに見えたら次の日は晴れ。朝焼けの後は天気が崩れる。天気に関する知恵として皆さんも聞いたことがあるかもしれません。聖書の時代の人たちにも同じような言い伝えがあったことに少し驚きを感じます。でもよく考えれば、自然界に関しては観察によってこのように判別できることがあります。昔の人たちはそれらを知恵として、また後の時代の人々は検証を重ね、科学的な知識や技術を構築してきました。 一方、イエスさまが救い主であることについては、空模様を見分けるような仕方では判断できません。それは信仰によらなければわからないのです。ところがファリサイ派とサドカイ派の人々は、「天からのしるしを見せてほしい」とイエスさまのところにやってきました。彼らは、イエスさまが行く先々でさまざまな奇跡を起こし、多くの人たちを集めていることを聞いて、その力の源、権威の根拠を明らかにしようとやってきたのです。けれどもそれは救いを求めていたからではなく、あくまでもイエスさまを試すためでした。するとイエスさまはおっしゃいます。4節「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」 そもそもファリサイ派とサドカイ派が一緒に行動すること自体、ありえないことでした。確かに彼らは共に宗教的指導者でしたが、その姿勢は対照的だったからです。ファリサイ派は、救いについて真剣に考え、律法を厳格に守る人たちで、清い生活を追求していました。そしてローマ帝国に対しては批判的でしたから、政治的には野党に位置しました。これに対してサドカイ派は、上流階級の者が多く、ローマ帝国の権力にすり寄って世俗的な暮らしを謳歌していました。その結果、信仰は形ばかりとなり、復活にも否定的でした。当然両者は仲が悪く、意見も対立しました。しかしこのときはイエスさまを試すために両者が手を組みます。この様子は、神さまから離れて罪に陥った人間の醜さを示唆していると言えます。 彼らの挑戦に対するイエスさまのお答えは、救い主であることを示すしるしは、彼らが想定しているような、だれにでもわかる形では与えられないというものでした。ここで引き合いに出されている「ヨナのしるし」とは、旧約聖書の預言者ヨナが大きな魚の腹の中に三日三晩いたエピソードを指しています。これはイエスさまが十字架の死の後、三日目の復活まで墓の中におられたことを意味します。つまり、イエスさまを救い主として指し示すしるしは、十字架と復活以外にはないということなのです。 十字架と復活。それは極めて受け入れがたく、また不可思議なしるしです。神のひとり子が罪人の一人に数えられて十字架で死に、そして三日目によみがえられる。合理的なところがなく、大変わかりにくい。とてもすんなりとは受け入れられません。ここにキリストを信じる難しさがあります。 また信仰については、もう一つの難しさがあります。それは信仰の主体は確かにわたしたちで、「わたし」が信じるということなのですが、しかし同時に、信仰は神さまから与えられるものでもあるという点です。これは非常に逆説的です。わたしたちが自分から信じたいと望めば信じられるようになるかといえば、決してそうではないのです。信じたいと願うことと、信じることは違います。信じたいという熱心さの積み重ねによって信仰に到達するわけではありません。そのような熱心さがかえって神さまから遠ざかる結果を招くことも少なくありません。 口では「神さま、神さま」と言いながら、いつの間にか自分の力を頼りにして「神さまを信じるわたしを信じる」ことになってしまうからです。むしろ、そのことに行き詰まりを感じ、「わたしが信じる」という気持ちを手放さざるをえなくなった時にはじめて、信仰はあくまでも神さまから与えられる賜物だということがわかったりします。それは、水の中の浮力に似ています。水中でやみくもに手足を動かしている間は沈むばかりですが、ふっと力がぬけた瞬間に体が浮き上がります。同様に、信仰をこの手でつかもうと握りしめているときには、与えられないのです。でもその手を開いて空っぽにしたときに信仰へと導かれます。 イエスさまはファリサイ派とサドカイ派を後に残してその場を去りました。そして弟子たちにおっしゃいました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」パン種はごく少量でパン全体をふくらませます。それゆえ聖書においてパン種は、悪があっという間に広がって全体に影響を及ぼす比喩としてしばしば用いられました。ここでもその意味で使われています。人間的な思いが入り込んでいるファリサイ派とサドカイ派の教えに気をつけなさいと、イエスさまは注意なさったのです。ところが弟子たちはその真意がわかりません。彼らはパンを持ってくるのを忘れたため、イエスさまからそれを指摘されたのだと勘違いします。 パンの奇跡を二度も体験した弟子たちが、「パンを忘れた」とうろたえていること自体、間が抜けていますけれども、その失敗に引きずられて、イエスさまのお言葉の意味を理解できない様子も何とももどかしいものです。それゆえ弟子たちはここでも「信仰の薄い者たちよ」とイエスさまから叱られています。8節~「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」弟子たちはイエスさまに言われてやっと気がつきます。5千人を養った奇跡、4千人を養った奇跡。そこで示されたのは救い主の深い憐れみでした。弟子たちはイエスさまのお言葉によって、やっとそこに立ちかえります。 今日の箇所を読むと、イエスさまを信じることの難しさを感じます。その唯一の道は主の十字架と復活を救いの出来事として受け入れることですが、イエスさまに敵対する者たちは受け入れるどころか、イエスさまを拒絶するために敵同士が手を組むほどでした。そしてイエスさまの弟子たちでさえ、直前の出来事をとらえきれず、見当違いなことを言い合っているのです。このような愚かさを抱えた人間がどうすれば信仰にたどり着くのか。それは、神さまがその道を作ってくださる以外に方法はありません。 今年の5月28日はペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊なる神さまが降られた日です。父なる神さまと御子キリストと並んで、聖霊なる神さまは三位一体の神さまとしてわたしたちを導いておられます。風のように目に見えず、自由にお働きになる聖霊なる神さまは、わたしたちの理解をはるかに超えておられるため、かえってわかりにくいかもしれませんが、しかしわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの内に住んでくださり、またわたしたちの周りに働きかけくださっています。その意味では、実は最も身近な神さまなのです。 わたしたちが主の十字架と復活を救いの出来事として受け止め、イエスさまを信じる信仰へと導かれたのは、聖霊なる神さまのお働きにほかなりません。そして、弱く頼りないわたしたちが神さまから離れてしまわないように、今もあらゆる仕方でわたしたちを守ってくださっているのです。弟子たちは叱られながらもイエスさまのおそばで御言葉を聞き続けました。わたしたちも御導きを信じ、御言葉の恵みにあずかり続けたいと願います。 |
東大宮教会 久保島理恵牧師 (くぼしま りえ) |
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