2023年7月のみことば

いきいきと生きる

  神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」  神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
                (創世記1章26~27節)
    
 「いきいきと生きたい」これが多くの人の願いではないでしょうか。いきいきと生きる、それを聖書はどう語っているのでしょうか。
 創世記1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 聖書はその最初の書、創世記に神様は私達人間を神様かたどって…創造された、別の訳では神様のかたちに、英語ではGod’s imageに創造されたと教えています。そして、1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
 それは極めて良かった、it was very goodなのです。人間をご自身に似せて造られ、人間をそこに置かれてご覧になった時に、すべてが完成した、中途半端なものではない、パーフェクトだと思われました。

 私達人間は何か偶然に発生した目的のない存在ではなく、神によって、神に似せて 目的をもって 創造された存在です。「神にかたどって」とは形・外観ではなく、性質的なことです。神様と人間の見かけが似ているということではなく、私達人間は、神様の性質に似せて創造されているということです。どういうことでしょうか?

①聖書のオープニング、創世記1章1節は、こう始まっています。
 1:1 初めに、神は天地を創造された。
 神様は創造者、クリエーターです。この創造者に似せて造られた人間は創造的な存在です。Creativeな存在です。人間はcreativeに生きるように造られています。幼稚園の園児がそうです。砂場で形を作り、ままごと遊びをする。絵を描く。粘土で何かを作る。大人も同じです。絵を描いたり、文章や俳句を作ったり、音楽を奏でたり、DIYで役立つもの作ったり、草花・植物を作ったりすることに喜びを見出します。

 ところが、私達は創造者である唯一の神様を否定して「神なんていない」と言います。また逆に自分勝手にいろんな神を作り、宗教を作り出して、自分の利益中心に生きたりします。そのために、この人間の中にある神様のかたちは歪められ、壊れてしまったのです。そうして、創造的な活動や考えは、和を乱すものと捉えられることがあり、会社や経営者や支配者の利益や考えによって、彼等の考えに合わない場合は、創造的なことはつぶされ、否定されてしまうことがあります。

②また神様は唯一の御方です。同じ存在は二つと無い、他のものと比較することのできない唯一の御方です。ユニークな存在です。神様に似せて創造された人間はユニークな存在なのです。一人一人が、二つと無い、独自のDNAを持ったユニークな存在です。

 しかし多くの人が神様を否定し、自分中心に生きて、このユニークさを否定したり歪めたりしています。ユニークとは唯一という意味です。ユニークな存在とは、神様は私達一人一人を丁寧に、目的をもって造られた唯一の者ということです。この地上に、歴史上に、同一人物は決していないということです。私達一人一人がユニークに造られ、神様のかたちとして尊い存在なのです。神様がご自身のかたちとして私達一人一人をユニークの者として、丁寧に造って下さっているのですから、要らない人間はいないのです。

 もしも「この人間は要らない」という言葉を聞くならば、それはその人の考えであって、神様は要らない人間を造られません。人間が、神を否定し、神の形をゆがめてしまい、一人一人が神の形にユニークに造られているということを歪めてしまっているのです。その結果、私達は互いに比較したり、競争したりして、互いに傷つけ合っているのです。競争社会を作り、競い合って、羨んだり、見下したりする。優越感に浸ったり、劣等感で悩んだり落ち込んだりするのです。
 私達は互いのユニークさや違いを認め、受け入れ、調和していくように造られています。

③また聖書は、神は霊ですと教えています。一般的に神というと白い髪と白い髭の、白い衣を着ている賢い老人として描かれることがありますが、聖書は神の外観については多くを語っていません。明確に語っているのは、神は霊です、ということです。つまり神様は私達の目で見える方ではありません。石や木の像でもありません。聖書は、神を像として人の手で作って拝むことを、してはならないと語っています。神は霊です。この神様に似せて造られた人間は霊的な存在です。どんなに物質的に豊かになっても、物やお金だけでは本当の満足を得ることができない霊的な存在です。人間が、唯一の神、まことの神を否定して生きると、人間の霊性は歪められてしまいます。

 人間は物質的な豊かさを最優先して生きたり、快楽だけを求めて生きたり、仕事の成功だけを求めて生きたりしますが、心にある霊的な必要を覚え、ご利益を与えてくれる様々な宗教に進みます。自分で宗教を作り出し、そこに霊的な満たしを求めます。日本でも戦後、新興宗教のブームと呼ばれるような時代がありました。新興宗教が起こっても、10年、20年経つうちに消えていったものもありました。キリスト教には2000年を越える歴史がありますが、その長い歴史の中で、もう最初の頃から人間が作りだした新しい宗教がありました。100年、200年続いたが消えていった宗教も多くあります。真の神は、世の救い主としてイエスキリストを送られた、イエスキリストを救い主と信じる者が起こされて、次世代へ、次世代へと受け継がれ、2000年余りが経った。

 霊である神様は、人間を霊的な存在として造られ、その霊的な必要を満たすためにイエスキリストを人間に与えられました。人間の霊的必要はイエス様にあって、完全に満たされて行きます。なぜでしょうか。

④人間は愛なしには生きられない存在として造られている、からです。
 神は愛である、と聖書は語っています。神の形に作られた人間は、愛し愛される存在として造られました。人間は神の愛無しには生きられない、そして神を愛して生きる存在です。ところが私達は神を否定し、神の愛を拒絶してしまいました。神様の愛を受け入れず、神様を愛さない結果、自己中心的になり、神様との関係が断絶した、そして人間関係も壊れてしまいました。それぞれが自己中心で、自分の事しか考えなかったら、人間関係は壊れてしまいます。

 神様に似せて造られた人間同士が、神を愛し、互いに愛し合うはずであるのに、互いに憎み合い、不信感を抱き、拒絶し合い、競い合っている現実があります。神様のかたちに造られた者として、いきいきと生きるとは、神を愛し、神の愛を受け、神様をお父さんと呼ぶ親密な関係の中で、人間同士が互いに愛し合って生きていくことです。

 ところが私達は小さい時から、神を信じるなんて弱い者がすることだとか、神様というのは自分の心の中にいるとか、自然が神なのだ、などと言って、木や石で作った像を拝んだり、雄大な自然を拝んだりします。また先祖代々から伝わった習慣にならって、宗教行事を行ったりします。でも「何を信じているのですか、どういう神を信じているのですか」と尋ねられると、「さて…」となることがあるのではないでしょうか。

 よく分からないのに宗教活動を行っている。これは何か。まさに、人間が神に似せて造られている証拠ではないでしょうか。霊的な存在として造られているので、神を求める行動や、霊的な現実を表す行動をするのではないでしょうか。このような宗教的行動をしながら、ずっと生きているのに、人間は自分をその姿に似せて造って下さった、創造主なる神に出会えない。これは何故か。聖書はその理由が「罪」だと語ります。

 聖書でいう罪は英語ではsinです。日本で一般的に罪というと、crime、罰則を伴う犯罪を私達は思い浮かべます。聖書がいう罪はcrimeとは全く別物です。聖書が語る罪とは、創造者なる神が人間を創造した目的からそれて、的外れな生き方・あり方をしている、そういう状態にあることが罪、なのです。新約聖書の原語、ギリシャ語で罪はハマルティヤ、的外れという意味で、その時代はアーチェリーでも使われていた言葉です。

 ですから、私達人間はみな罪人です。神様が願っておられる正しい状態に無いのです。この結果、人間は悪い事をして法を犯して刑罰を受けることがあります。また日常的に人を傷つける言葉を言ってしまったり、暴言、誹謗、怒り、噂など、これらは罪の結果、人間がしてしまうことだと聖書は語ります。神様はこのような状態を悲しまれています。そこに解決を与えたいと願っておられます。

 神様が与えた解決、それは唯一、罪を犯したことが無い人を通してでした。イエスキリストです。神様と共に天におられたイエス、神の一人子であるイエスを、神様は人としてこの世に送られました。
 イエス様は、罪の無い神の子としてこの世に来られ、私達人間のすべての罪を肩代わりして十字架で死んでくださいました。イエス様が人間に代わって罪を負って処理して下さったので、神様は「これで良し」として下さり、私達一人一人がそれぞれ「私の罪のために、イエス様は十字架にかかって死んでくださった、復活してくださった」と信じ、神様にそう告白する時に、私達を良しとして下さって、あなたは私の子だよ、神の子だよ、私はあなたの天のお父さんとなるよと、神様が願っておられる正しい状態に回復して下さる。神様との正しい関係に入れて下さるのです。具体的にどうしたらいいでしょうか。2つです。

①自分が神様を信じない、的外れな生き方をしていることを認め、神様に「ごめんなさい」をすることです。つまり自分の罪を認め、悔い改めることです。自分中心の生き方を捨てて、神様中心に生きる決心をすることです。

②神様が、自分の罪のためにイエスキリストを十字架にかけ、罪の肩代わりをして下さった事を感謝し、自分を罪から救ってくれる救い主としてイエスキリストを信じ受け入れることです。

 イエス様をお迎えした時から、神様は私達の罪を赦し、私達の中にある神の姿を回復させてくださいます。生まれて以来ずっと使わないでいた神の姿という箱にスイッチが入るのです。電流が流れ、神の姿がみるみるうちに育っていきます。
 歴史上、多くの宗教家や哲学者が良い教えを伝えました。しかし彼等は死にました。イエス様は死んで、よみがえり、今も神様と一緒に居られ、聖霊を通して私達一人一人の心の中に、新創造の御業を進めて下さいます。イエスキリストは死んで、死に打ち勝ち、よみがえり、今も生きて働いておられます。信じる者達もこの復活に与ると仰っておられます。神の姿に造られた私達は、神に似せて造られた霊的な存在です。肉体はなくなってしまっても、神と同じように霊は永遠に生き続けます。私を愛してくださる神様と共に、天の御国で、神様と同じように終わりなく生き続けます。これが永遠の命です。

 私達がすること、それは①自分は神の形として造られたのに、神を知らず、無視して、背を向けて、自分中心に生きてきた罪を認め、神様に「ごめんなさい」をするのが第1歩です。②次に、イエスキリストが、自分の罪を赦すために、十字架上で死んで下さった事、死から蘇られたことを信じ受け入れることです。

 イエス様は心の扉を叩いておられます。ドアノブは内側にしかありません。イエス様はあなたの許可なしに外から無理やり入ろうとはなさいません。あなたが自然に扉を開け、イエス様をお迎えする時を忍耐強く待っておられます。
 イエス様をお迎えする時に、神様は私達を新しく創造して下さいます。自分の罪のために歪んでしまったところから、神の形、新しい命を与えられた者として、新しい創造が始まります。これか神の力、神の愛による新創造です。私達の自分の力でできることではありません。私達はただ信じ、委ねる、神様がしてくださることに身を任せ、感謝し、喜んで新創造の恵みを信仰によって生きることです。

 聖書にこう書いてあります。
 ローマ10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
 いかがでしょうか。イエスキリストを信じて、神の形、神に似せられた者として相応しく、いきいきとした歩みに進みませんか。

 そのようにしたいと願われる方は、その場でお祈り下さい。
 「イエス・キリストの父なる神様、私は今までずっとあなたに背を向けて生きてきました。あなたを無視し必要無いと考えていたことを、あなたの前に“ごめんなさい”します。イエス様が私の罪のために死んで下さったことを信じ感謝します。これからの人生をあなたにお任せします。どうぞ導いて下さい。」
  こう祈る時に神様の愛を心に覚えられることでしょう。もしお一人で祈るのが難しいと感じられたら、どうぞお近くの教会をお訪ねください。これを読んで下さったあなたの上に、あなたを創られ愛しておられる神の豊かな祝福をお祈りいたします。

志木教会 横山好江伝道師
(よこやま よしえ)
 





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