2023年8月のみことば

種蒔きのたとえより 「マタイ福音書13章が指し示す伝道戦略」 

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
                (マタイによる福音書13章1~9節)
    
 聖書は教える。自分を傷つけ害を及ぼす人を赦しなさい。復讐は神に任せ、恨(うら)み憎しみを捨てて祝福を祈りなさい。また聖書は教える。年収10分の1、それも手取りでなく額面の10分の1を月定献金として納めなさい...初めて耳にしたとき“そんな馬鹿な!”と思ってしまう教えが聖書にはあるものだ。

 マタイ福音書13章前半は、主イエスの働きの成果を、古代農業の種蒔きに喩えて説明する。3節後半「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」...種とは、主イエスの教え・御国の言葉である。種は天国の力を秘めている。“ジャックと豆の木”よろしく、芽を出すと草木に成長し、果実を豊かに実らせる。しかし同じ種でも、落ちた先の、土の状態いかんに依っては、全く実を結ばないことがある。主イエスは、土の状態、つまり御言葉を聞いた人の、心の状態に応じた実りの違いを4段階に区分して説明された。

 最初の土は、足で踏み固められた土である。4節「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」...「道端」とは元の言葉では、道に沿って、と書いてある。道の端ではなく、真ん中でも良い。何しろ足で踏み固められた、カチカチの土。だから蒔かれた種には居場所がない。これは頑(かたくな)な心を指している。

 これは主イエスを敵視したファリサイ派や律法学者の心である。また私たちでも、折角日曜に教会に来ているのに、説教の一部分で、説かれる御言葉が心に響かないこともある。そんなときの心である。そもそも現代人の多くは時間に追われているから、たとえ天国の秘密を耳にしたとしても、立ち止まって考える余裕は乏しい。そこに悪の勢力が付け込む。その人が救われることのないよう、種を啄(ついば)んで去って行く。右耳に入った言葉が左耳から出て行くように、例えば、刺激の強いユーチューブ動画を見たとたんに、すっかり忘れるよう仕向ける。

 2番目の土は、その下が岩盤、という、厚みのない土である。5節「ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した」6節「しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」...「石だらけ」とあるから、石ころがたくさん混じった土なのか、と思ったが、元の言葉には「岩だらけ」と書いてあった。これは英語でいう、ロッキー山脈のロッキー、薄い土の下に岩盤がある、そんな環境だった。

 これは、世間からの同調圧力に屈し易い、打たれ弱い人の心を喩えている。人に何か言われる、白い目で見られる、といった不都合が起こると、御言葉から学んだことをすぐ捨てて、以前の人に戻ってしまう。それは出エジプト時のイスラエルの民のようだ。念願叶ってエジプトを脱出できたのに、苦しくなると“エジプトの方がましだった”と騒ぎ立て、モーセを苦境に立たせた(出エジプト14、16、17章)。現代なら“聞くに早く話すに遅く怒るに遅く”など御言葉を教えられて初めは取り組むものの、競争に負けたり、他人に何か言われたりすると、元に戻ってしまう人。信じたのに自分をクリスチャンと言い出せない人。家族を気遣って家では仏壇に手を合わせる人、皆、信仰の初心者だ。

 解決方法:共に歩む仲間と信仰の分かち合いを増やすこと。信仰生活は団体戦だからだ。祈祷会・家庭集会など、礼拝以外の教会活動に参加するのも良いし、信仰の友と自宅で交流するのも良い。それに加えて自分でも毎日、聖書に親しむことが助けになる。人に愛されたい、という願いを一旦捨てて、神の愛に集中することも有効だ。

 3番目の土は、茨が生い茂った土である。7節「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった」...この土は柔らかく、栄養もいっぱいで、深く根をはることもできる。しかし土の状態がどんなに良くても、いや良いが故に、既に茨が、カラタチが、サボテンが、生い茂っていて、その先客たちが邪魔をして、蒔かれた種の成長を妨げてしまう。これは、御言葉を聞いた人の内側に、強固な固定観念・根深いい欲望・プライドが先にある人を指している。これらが人を縛って種の成長を著しく妨げる状態なのだ。

 例えばマタイ19章・金持ちの青年。完全になることを望むなら、持ち物を売り払って貧しい人に施せ、それから主イエスに従え、と勧められた。文字通りに実行するなら、失うモノがあまりに多過ぎる、と気付いた。プライドもそれを許さない。だから悲しみながら去って行くのだ。現代ではそれは、科学的・学問的にモノを考える人かも知れない。日本社会で“常識”とされる科学的・学問的見地から聖書を読むと、その多くの箇所が嘘に見えてくる。そんな風では他人からの同調圧力に勝てても実を結べない。こちらもまた信仰の初心者だ。

 解決方法:簡単には実現できないが、方法はある。それは“馬鹿”になって聖書の価値観で人生の土台を組み直すこと。自分自身がしがみついている、自らの賢さ・自らの知恵を捨てること。人生に起こる、悲劇的な苦しみ・悲しみを肥しとして、価値観の土台を組み直すのだ...戦後間も無くの時期は、社会的現象としてこれが起こった。天皇は神でなく人間だ、ということになった。それまで正しいと信じられていた学校の教科書には墨が塗られた。価値観が根本から問い直された時、三浦綾子さんを始め多くの方々が、それまで信じてきたことを捨てて、聖書の価値観で土台を組み直した。戦後の教会の、発展の根は、素直に聖書を信じ、人生の土台を組み直す所にあった。

 4番目の土は、良い土である。8節「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」...これは御言葉を聞いて悟る人。御言葉を勉強・研究する人ではなく、聞いた通りのことを素直に実行する人。紛らわしいが言い換えると、岩の上に家を建てた人。迫害者に祝福を祈り、年収・額面の10分の1を月定献金に献げる人。そんな人は滅多にいないかも知れぬが、それを愚直に実行する人は、普段からの御言葉実践の故に、主イエスに愛される、いや、溺愛される。努力によってではなく、主イエスを心から信頼するが故に、聖霊の風を受け、百倍、六十倍、三十倍の実を結んでしまう。

 目に見えない神様からのプレゼントによって規格外・常識外れの祝福を得る。この世にはない、神様の魅力がその人から輝き出てくる。そんな人は日曜の礼拝に必ずしも神の恵みを求めない、逆に恵みを分け与えるために教会に来るのだ。ここに至って初めて、初心者を卒業したことになる。厳しい世界だ、と言えよう。

 そういう方々は、物事の本質を見極める霊的な力=炯眼(けいがん)・特別な見識を備えていて、見つけた宝・主イエスには全財産を賭ける価値がある、と判ってしまう。13章44節の通り:「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」...主イエスという宝を発見した喜びの余り、背負っていた荷物・古い価値観を“断捨離”し、主イエスの教えで土台を組み直し、主イエスに人生を献げるのだ。それが最も意義深い、最高の人生になると判っているからだ。

 聖書の登場人物で考えるなら、それは100年近くの年月を掛けて方舟を建造したノア。生まれ故郷、父の家を離れ神に従ったアブラハム。出エジプトのリーダー・モーセ。命狙われても神に従ったダビデ。バアル預言者450人と戦った預言者エリヤ。それはまた、12使徒に代表される主イエスの弟子たち。現代ならマザーテレサの姿が目に浮かぶ。聖人ではない、ときに失敗もある。しかしイエス様を知らない人が、自分もそんな人になりたい、と自然に願ってしまうような方々だ。このような、豊かに実を結ぶ人が増えると、教会は自然に成長する。

 御言葉実践が伝道に直結する。主イエスを信頼し御言葉を実践するとき、教会は人間の伝道努力によって、ではなく、聖霊の風を受け神の力で成長する。裏を返せば教会は、教会員を初心者から卒業させ、豊かに実を結ばせることに成功すると、成長する。これが教会の制度設計だ。

 ところが戦後の日本のキリスト教会は、ある意味、独特な発展を遂げた、と感じている。日本の教会の特徴は、行いではなく信じることで救われる、という信仰義認が、教会の中心にあった所ではないか。これを聞けば、宗教改革者、マルティン・ルターの考えを受け継ぐ良い教会だ、と思える。しかし課題が残った。御言葉実践によって実を結び、日々喜びに生きる、という、信仰の次の段階が見過ごされてしまった...確かに、主イエスを救い主と信じさえすれば罪赦されて、永遠の御国に押し込んで貰える。しかし信じただけでは初心者のままだ。それを卒業して、あらゆる誘惑に打ち勝ち、実を結ぶ信仰者になるには、主イエスの教えに生きること、失敗を恐れず御言葉実践に踏み出すこと、神様が自分に賜った人生のデザインに沿って生きることが大切だ。

 しかし戦後の教会は信仰義認を大事にするあまり、洗礼を受けた後の信仰訓練を失ったのではないか。信じるだけで救われる、を強調するあまり、主イエスとの関係を深めて実を結ぶことが教会の生命線、とは考えられなかった、のではないか。何れにしても百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人材の育成には邁進できなかった。勿論、皆で熱心に勉強はしていた。ところが、それは神学的探究に傾くこと多く、主イエスの教えを実践するため・初心者を中級者に引き上げるための、信仰訓練ではなかった。だから教会に10年以上通い続けても、御言葉の実行力が身に付かず、神様との関係が深まらない、聖書理解も期待した程には深まらない、という残念な信徒が増えてしまった。まさに、私自身がそうだった。何かが足りなかったのだ。

 私自身が牧師の召命を受けたとき、日本でなく海外のキリスト教が盛んな国で学ぼうと志したのは、そのためだった。折しも古屋安雄先生が『日本のキリスト教』(教文館、2003年)で問い掛けていた:韓国に行って、その教会成長の秘密を探ってくる者はいないのか、と。私は自分自身がその嚆矢(こうし)になりたいと願い、韓流ドラマ『冬のソナタ』の余韻醒めやらぬ頃、渡韓させて頂いた。

 だが戦後、そんな教会にも人が集まったのは東西冷戦構造が追い風になったからではなかったか。戦後、日本の教会は戦勝国・北米の諸教会から愛のプレゼントを受け取った。沢山の献金が贈られ、多くの宣教師が日本に駐在した。日本基督教団の本部は、銀座のど真ん中にあり、北米教会の献金と人材を得て長らく運営された。アメリカ寄りのキリスト教は“勝ち組になる近道”と人々に思われた節がある。教会は、戦前日本の軍国主義やソ連・東側諸国の圧政からの解放者・堅固な砦だと考えられていなかったか。キリスト教学校に行けば、宣教師から生の英語を学べて社会的地位が向上する、と思われていなかったか。何れにしても戦後日本のキリスト教は、全体として見たとき、時流に乗ったかのように順調に成長した。ところが、そんな時代にも終わりが来た。

 ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が氷解した1990年代、日本基督教団の数的な成長はピタリと止まった。追い風が消えた。教会は、集まる信徒の成熟度が問われる普通の時代に戻った。ところが私たち教会の人間の頭は切り替わっていない。自分たちは教会の内部で、仲間に対して恨み憎しみを永年抱いたままだったり、陰で互いの悪口を言い合ったりすることもある。それなのに、これらを無意識に棚上げして、“どうして教会に人が集まらないのか?”と悩んでしまう。本当は、自分たちがやるべきことをやっていない、教えられた御言葉に生きていない、のに、他の原因を探すために、学者を集めてシンポジウムを開くこともある。

 主イエスは、ご自身の教えを信じた我々が行うように、と招いている。信じた人は、洗礼を受けるだけでなく、約束の御言葉を握って光の中を歩め、と命じられている。その基本を守るとき、私たちには神様の魅力が宿る。愛と喜びに満たされ、主イエスの栄光を輝かすようになる...だが私たちの日常での取り組みは中途半端だった。つまり、私たちは自分でも気付かずして力の出し惜しみをしていた、のではないか。御言葉の実行力、という賜物を土に埋めていた、のではないか。

 聖書は、恨み憎しみを捨て、復讐を神に任せ、相手に祝福を祈りなさい、と教える。やろうと思えば、誰でも実行できる至極簡単な行いの勧めである。でも多くの人は、癪に障るから敢えて実行しない。そのままでは神様には喜ばれないし、聖霊で満たされたり、喜びに溢れたり、という楽しい信仰生活が送れない。逆にもし気持ちが乗らなくても、失敗を恐れず、勇気を出してやってみるなら、人生は大きく変わる。実り乏しい残念な教会も、行いによる成熟を目指せば、恵み豊かで幸福な教会に変わり発展する。これぞ神様のデザイン、教会が主イエスの体たる所以(ゆえん)だ。

 個人的な話をさせて頂く。私はかつて、ある職場で働いていた。そこではキリスト教主義の中学高校に、外国人クリスチャンを信徒宣教師として紹介する、転職エージェントのような仕事をしていた。顧客である校長先生がおっしゃるには、外国から来た宣教師の先生は、キリスト教の魅力を体現してくれるので、キリスト教学校として、とても助かる、という。言外の意としては、日本人クリスチャンの先生だけでは、キリスト教学校を十分に表現できない、らしい。もしそうなら、これは学校の問題ではなく、日本の教会の人育てに課題があったこととなる。

 外国と比べてみよう。たとえば隣の韓国では、キリスト教学校に宣教師はいないし、外国からクリスチャン教諭を招聘しないと、キリスト教学校らしく見えない、という話もない。(それは台湾やフィリピン、北米や欧州でも同様だ。)実際、韓国教会は百年以上前から、聖書の価値観で人生の土台を組み直し、御言葉実践に励む人材の育成に余念がなかった。結果、主イエスの魅力が教会に宿った。だから韓国のキリスト教学校は、韓国人の教諭だけで、キリスト教の魅力を体現できる、のだ。

 韓国教会の成熟の礎は、1907年、全国に拡がった悔い改めリバイバル運動である。しかし埼玉地区・東松山教会の崔長壽(チェ・ジャンス)宣教師に最近お話を伺ったところ、もう一つ決定的な構造要因があった、と教示された。列強がアジア諸国を植民地化していく歴史の流れの中で、鎖国を続けていた李氏王朝とエリート層は、独立を維持するための何の手立ても持ち合わせていなかったこと。日本が長崎・出島でオランダと通じることでヨーロッパの事情を把握していたのとは対蹠的に、李氏朝鮮は情報面でも遮断されていたこと。識字率が高かった日本がヨーロッパから学んで近代化を遂げる準備が出来ていたのに対して、李氏朝鮮はその準備ができていなかったこと。

 だから列強が半島に手を伸ばしたとき、ただただ、自国が列強に蹂躙され、外国の軍隊同士の戦争、日清・日露戦争が朝鮮半島とその領海で繰り広げられるのを、見ているしかなかった。日本が、和魂洋才と云って、自分たちの良いモノを堅持しながら西洋の良い所を取り入れたのに対して、朝鮮は伝統も制度も秩序も文化も、全く役に立たない、いわば、藁をも縋(すが)る状況に置かれた、という。そんなとき、キリスト教の宣教師が来て、主イエスにあっての希望を伝えてくれた。こうして民族にとって福音は唯一の希望と映った。また諸宣教師も民衆の側に立って、列強支配への抵抗運動を支援してくれた。だから自分たちは「持ち物をすっかり売り払って」、聖書に記された主イエスの教えで人生の土台をすっかり組み直せた、という。それは自分たちの努力で成し遂げたのではなく、そんな環境を整えてくださった神様の恵みだった、という。

 教会が実を結ぶための最上の鍵は、聖書の価値観で人生の土台を組み直す信仰訓練である。これは痛みを伴う作業だが、上記の要因が強く影響して、韓国教会は100年以上も前から、それに取り組んでいた、と知った。年収の10分の1を献げ、迫害者のために祝福を祈り、主イエスの教えを愚直に守る。そんな人生を主に献げた信仰者が次々と韓国では生み出されていったのである。こうして豊かに実を結び、質的に成熟した韓国教会は、1970年代・80年代に至って驚異的な数的成長をも遂げた、そうである。これで韓国のキリスト教学校が、外国人宣教師を必要としない、という理由が一層よく理解できた。

 主イエスを知らない世の方々が教会に求めるのは、聖書についての神学的知識ではなく、この世にはないもの、つまり神様の魅力、主イエスの愛、神の国の味である。日本の私たちも、人生の土台の組み直し作業に10年、20年と取り組むことで、いつの日か、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことだろう。

 信仰生活は個人戦ではなく、団体戦である。埼玉地区が共に支え合いながら取り組むことで、いつの日か、牧師と教会員に宿った創造主の魅力が、地域の方々を不思議と救いに導くときが来るだろう。伝道集会・教会バザー等の教会行事、また幼稚園経営を通しての伝道努力は、このような神様のデザインに沿って教会が成長するときこそ、一層力を発揮するものとなるだろう。

草加教会 高田輝樹牧師
(たかだ てるき)
 





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