2023年9月のみことば |
ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 (フィリピの信徒への手紙2章25~30節) |
(1) さて、私たちクリスチャンの中には、教会の礼拝は守るものの、色々な理由で奉仕が十分出来ないということで肩身の狭い思いをしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。確かに、時間が十分にあるのならば、それが出来るでしょう。しかし、年を取って体が動かない、仕事や家庭の事情で、教会の奉仕が少ししかできない方もいらっしゃるでしょう。教会は、そのような方にとって、居心地が悪い場所なのでしょうか。そうではないと思います。そのことについて、フィリピの信徒への手紙に出てくるエパフロディトという教会員に対するパウロの言葉に耳を傾けてみたいと思うのです。 この個所をさっと読むと単なる事務連絡のように見えます。しかし、丁寧に読むと、パウロが信仰者の交わりについてどのような思いをもって見ていたかが良く見えます。それを知ることは、私たちの教会の交わりが、より豊かになることに繋がります。まずエパフロディトが派遣された経緯を見た後に、パウロから示される信仰の視点を見てみましょう。 (2) それではエパフロディトが派遣された経緯を見てみましょう。フィリピの教会では、パウロという伝道者に対して、特に愛を感じ、何度か物を送って励ましていたようです。そのパウロがローマで牢獄に繋がれているということを聞いて、彼らは、教会員エパフロディトに贈り物をたくさん持たせ、さらに獄にいるパウロと、しばらく一緒に暮らせるように取り計らったようです。牢獄に外から自由に出入りできるというのは驚きです。そこでエパフロディトは、フィリピからローマまで旅をし、贈り物を届けただけでなく、ローマの牢獄に入ってパウロの世話係として一緒に暮らしたようです。 ところが無理な生活をしたためか、彼は病気になってしまいました。死ぬほどの病気だったようですが、幸いにしてそれが良くなりました。しかし病気が治ったエパフロディトは、しきりにフィリピの教会の人々に会いたがるようになりました。折角、みんなに励まされてここに来たのに病気になってしまい、それがフィリピの教会に伝わってしまった。それを知って彼は肩身の狭い思いがして心苦しく思ったことでしょう。こういうことが知れたら当然、教会の中にも、それに対する反応が起こって来たに違いありません。その反応は、誰でも想像出来るように、いいことばかりではなかったでしょう。 折角、派遣したのに役に立たないばかりか、パウロに迷惑をかけたのではないか。それならば早く帰るべきだという話まで聞こえたことでしょう。このことは、パウロにとっても面倒な問題になりました。フィリピ教会からの好意を、パウロは大変嬉しく思ったのですが、エパフロディトの立場を思うと、これもまた傷つけないようにしてやりたいと思ったことでしょう。それは彼らの間を何とか取り繕って妥協出来るようにということではありません。この問題に関し、パウロは、キリストによって与えられている「喜び」を、どのように生かすことが出来るかという視点で話を進めています。それでは、ここから、パウロが「キリストの喜び」という視点で展開している話に目を留めましょう。 (3) 「キリストの喜び」という視点のひとつめは「主が彼を憐れんでくださった」ということです。 ① エパフロディトやフィリピ教会のことを考えるといろいろ配慮が必要です。では、パウロは、どのような信仰的な解決方法を持って臨んだのでしょうか。まず言えることは、パウロは自分がそれを解決出来ることではないと考えていたことです。何故なら、喜びをもって解決すると言っても、その喜びは自分が作り出すものではないと思っていたからです。 それは神が与えて下さるものであると彼は堅く信じていたのです。エパフロディトを非難や批判をする人が多くあったらしいということは先に述べた通りですが、それならば神はエパフロディトに対して、どうなさったのでしょうか。27節に「神は彼を憐れんでくださいました」と書いてあります。伝道という活動に関し、もし非難や批判をするとかということであれば、その主体は言うまでもなく神であるはずです。何故なら、人間は、他の人を非難したとしても、非難する人自身が非難されなければならないものを持っているからです。 ② 私たちが聖書を通して知らされるのは、他の人を裁くことが出来る人は一人もいないということです。しかし、神だけは本当に人を裁き、人を非難し、人を批判できる方です。ところが、その神が、働きが十分でなかったエパフロディトを非難なさらなかったのです。かえって彼を憐れまれたのです。ここにエパフロディトにとっての本当の救いがあったということです。誰も非難出来ない完全なる方である神が、彼を憐れんで下さったのです。「憐れむ」というのは、エパフロディトに悪いことが何もなかったということではありません。「憐れむ」というのは、駄目な所があることを承知の上で彼を赦すことです。 ③ このように神の憐れみは、エパフロディトにとってだけでなく、誰にとっても有難いことです。罪のない人間というのは一人もいません。失敗のない人間は一人もいないのです。また私たちの生活には、罪に少しも関係がない生活というのはひとつもないと思います。だから神の憐れみだけが本当は頼りであり、慰めであり、また本当の喜びをもたらす原点であるということです。私たちも、「神の憐れみ」に立って、物事を見つめてみましょう。 (4) 「キリストの喜び」という視点の二つ目は、「主は、私たちを兄弟や同労者そして戦友として交わりに加えて下さる」ということです。 ① 冒頭でエパフロディトが派遣された経緯を述べました。現在でもあることですが、外から来た人は、すぐには、周りの方との交わりに溶け込めないことも多くあると思います。また病気になったことで、周りの人やフィリピの教会の兄弟から厳しい意見が出ていただろうということが推察出来ます。ですから、このことで一番辛いのは、エパフロディト本人だったと思います。彼は強い孤独を感じていたことでしょう。そのような中でパウロが一人の教会員であるエパフロディトをどのように見ていたか分かる言葉があります。それは25節の「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友である」という言葉です。そこにはどのような恵みが隠されているのでしょうか。 ②パウロは、第一にエパフロディトを「わたしの兄弟」と呼びました。この兄弟という言葉は、キリスト教の初めからクリスチャン同志がお互いを呼び合った呼び方です。これまでもエパフロディトは、フィリピの教会で兄弟と呼ばれていたことでしょう。しかし、今回、病気をして孤独を感じている時に、みんなから尊敬を受けている指導者パウロから「わたしの兄弟」と呼ばれたことは、どんなに嬉しかったことでしょう。主の交わりに入れて頂いていることを実感したでしょう。またフィリピの教会では、彼はパウロに迷惑をかけたと思っていたでしょう。でも、この言葉を読み、確かに病気で十分な働きが出来なかったかもしれないが、主の豊かな交わりに入れられていたのだとはっきり感じ取ったことでしょう。 この言葉は決して、パウロの外交辞令ではありません。心からの言葉です。パウロは、彼を伝道に携わるメンバーとしてその役割を果たす一人だと認めていたのです。私たちは、普段から教会で兄弟又は姉妹と呼び合っています。これは、もともと全くの他人である者が、同じ神を信じているという信仰によって兄弟・姉妹と呼び合うことが出来るということです。これは素晴らしいことです。そこに秘められている恵みは、神の憐れみによる交わりです。今の私たちは、普段からこの言葉を使い、何も感じていない方も多いと思います。しかし、兄弟・姉妹と呼び合えることは、パウロが示す「キリストの喜び」を分かち合える一人一人だということを、覚えたいと思います。 ③ 次にパウロは、エパフロディトのことを「協力者」と言っています。口語訳聖書では、この個所を「同労者」と記しています。この訳の方が伝道に携わる人への表現としてふさわしいように思います。エパフロディトはフィリピの教会から遣わされ、パウロの生活のお世話をしており、直接、伝道活動はしていなかったと思います。それにもかかわらず、パウロは、彼を同労者と呼んでいます。パウロから同労者と呼ばれ、エパフロディトは、どんなに光栄に思ったことでしょう。どんなに目立たない奉仕であっても、福音伝道に献げている働きは、全て同じく大事なものとパウロは見ていたのでしょう。 信仰生活というものは、自分が何か得することだけを求めることではありません。苦労もまた神から与えられたものです。ですから、パウロは「神の憐れみ」の視点から見ると、エパフロディトの苦労や病気もそのうちの一つと理解できたのでしょう。だから、彼を、誰にはばかることなく「同労者」と呼んだのです。 ④ パウロは、また彼を「戦友」と呼びました。戦友というのは、言うまでもなく戦争に出て一緒に戦っている者、又は過去に一緒に戦った者ということが出来ます。今の時代、日本に戦争はありません。そうすると、この言葉は私たちと無関係なのでしょうか。そうではないと思います。それは私たちの信仰生活は、色々な困難と向き合い戦いを強いられているからです。 ある学者は「私たちの信仰生活こそ戦いだ」と言っています。では、パウロのように福音宣教という大きな活動に加わっているから「戦友」と呼ばれるのでしょうか。そうではないとパウロは言うのです。エパフロディトのようにパウロのお世話をするために働く人もまた「戦友」なのです。それは働きの大きさ、立派さとは関係なく、神のため、福音のために戦う時、全ての人は戦友だということです。キリストの十字架と復活によって結び付けられた私たちは戦友なのです。このような称号を頂いていることは何という恵みでしょうか。 (5) みなさん、私たちは弱い者です。時々、失敗もします。病気もします。またいろいろな事情で奉仕が出来ない等で、クリスチャンとしての奉仕の役目が果たせなかった時もあるでしょう。そのことで肩身が狭かったり、自分が惨めに見えたりしたこともあるでしょう。しかし、キリストを喜びとする視点から見た時、私たちは神の憐れみを受けていることを知らされます。また奉仕が出来ている人も同じ憐れみを受けています。 このように同じ神の憐れみを受けた者同士であること御言葉から知らされた時、私たちの交わりは、今までと全く違った恵み豊かなものに変わります。今日私たちはパウロの言葉を聞きました。「あなたがたは、わたしの兄弟姉妹、同労者、戦友である」。この呼びかけに込められた恵みを覚え、喜びをもってこれからを歩みましょう。 |
浦和別所教会 澤田石秀晴牧師 (さわだいし ひではる) |
今月のみことば | H O M E |