2023年11月のみことば

律法に死に、キリストに生きる

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。
彼らはエジプトの地に帰ることもできず/アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち/たくらみのゆえに滅ぼす。
わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも/助け起こされることは決してない。
ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
                   (ホセア書11章1~9節)

 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
                   (ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節)

 私たちがキリスト教を伝えようとする時に、それを拒まれる時の理由として、よく聞かされるのは、「わたしは日本人だから」というのがあります。次に意外と多いのは、私が牧師であることを言うと、必ずと言って良いほど返ってくる質問は、「牧師さんになるのには、どんな修行をされるのですか」というのです。日本基督教団の場合は、教団の教師検定試験を受けて、教会の教師になります。これは伝道師と牧師の二段階の試験があります。神学校に行くことは、必須ではありません。独学で神学の諸学科を学ばれて、教団の試験を受けることもできます。もちろん、どちらにしてもイエス・キリストを信じて、洗礼は受けていることは大前提ですが。

 そういうことなので、神学校というのも、そこで一般にイメージされるような修行というのは、特になくて、普通に授業を受けて、試験を受けて単位をとって卒業します。それで、そのようにお答えをすると、大抵の方は、少しガッカリされてしまいます。どうしてガッカリされるのかと私が思いますのには、修行をしていない人の言葉には、重みがないからではないかと思います。イエス・キリストを宣べ伝えると言っても、イエス・キリストを知らない人は、イエス・キリストを語っている人が、信用のおける人かどうか、それが大切な条件になるのではないかと思うのです。

 ところがパウロの場合、これとは真逆です。まず修行ということについては、律法主義に反対。加えて、パウロという人物については、そもそもクリスチャンの迫害者で、そのパウロが宣べ伝えるキリスト教を信用できると思う人は、まずいないでしょう。そうであれば、せめてパウロは、自分が律法主義者であるユダヤ人であることを捨てて、異邦人であるガラテヤの教会の人々と同じですと言うのでしたら、まだ分かるのですが、今朝、読みました15節には、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」などと、これも真逆なことを言い始めるのです。

 これを聞いたガラテヤの人々は、パウロも他の律法主義のユダヤ人のように、罪を赦されるためには、生まれながらのユダヤ人にもまして律法を守らなければ、罪人から逃れられないのかと思うでしょう。ここでは確かにパウロは、律法については異邦人に対してユダヤ人の方が上なのだと言っています。パウロのユダヤ人としての誇りが伝わって来ます。

 ところが次の16節で「けれども」と言い始めます。自分たちは生まれながらのユダヤ人で、律法においては異邦人などとは比べものにならないと思っていたのだ、「けれども」なのです。そんなプライドなど、全く意味をなさないことを、自分たちは、イエス・キリストによって知ったと言うのです。イエス・キリストの十字架は、ユダヤ人の律法などとは、比べることさえもできないものであることを知ったのだと言うのです。それで自分たちは誇り高い律法を捨ててクリスチャンになったのだと。

 そしてクリスチャンになるということは、「律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただく」ことなのだと言います。この「義としていただく」というのは、誰に「義としていただくのか」と言うと、それは他でもない神さまに「義としていただく」のです。この律法というのは、かつてモーセがシナイ山で神さまからいただいた十戒を起源にもつ、割礼を始めとする神さまの民であることの印です。ですから律法によらないというのは、この神さまの民としての印がなくて「義」としていただくと言うことです。つまりクリスチャンは律法を行うことによって「義」としていただくのではなく、イエス・キリストを信じることによって「義」としていただいた、「神さまの民としていただいた」のです。

 それでは律法にしても何にしても、人間の努力で神さまに義としていただくことと、イエス・キリストに義としていただくことと、どちらがより確かでしょうか。本来比べられるものではありませんが、十字架の死から復活された主イエスに義とされることの方が、確実に決まっているのではないでしょうか。神さまの民となるために、人間の努力など全くしなくても、ただイエス・キリストを信じるだけで「義」と認められる。神さまの民として、「それで良し」とされるというのです。
 
 ここで、実は私は、とても引っかかります。「イエス・キリストへの信仰」とは、どういうことでしょう。この「信仰」と言われている事柄ですが、これも律法に実は似ていて、私たちがイエス・キリストを信じている、その信仰とは、神さまの民としていただくほどに純粋なものなのでしょうか。何の疑いも無く、欲もなく、嘘もなく、私たちは信仰しているのでしょうか。
 これは、私の自問です。私は、自分の信仰に疑いがあります。神さまの祝福を信じて、主イエスに信頼をして、牧師にもなって生きて来ましたが、人生には、その思いを砕くようなことが多すぎます。

 今、木曜日の「聖書と祈りの会」で、「主の祈り」を学んでいますが、その中に、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」とあります。しかし、私は実際、赦せません。口先では赦すようなことを言ったとしても、心の中の怒りを収めることができません。たとえ、イエス・キリストはその人のためにも十字架に架かられたと言われても、その人の罪は赦されるとしても、私の怒りはそのままです。人の罪を赦さないでいて、自分の罪の赦しを願うのは、不誠実だと、「祈りの会」で読んでいる手引き書にはありました。そのように言われれば、私の信仰は「不誠実」だということになります。

 確かに、私には赦されなければならない罪があります。そのことを考えれば、人の罪を赦せないだのとは言えないです。しかし、その手引き書に記された小見出しには、「信仰生活の戦い」とありました。それはこの戦いをしている人は、恐らく私に特別なことでは無くて、多くのクリスチャンが抱えている問題だからでしょう。それにしても、これは苦しい戦いですし、ある意味、心に重くのしかかる、新たな律法では無いかとさえ私は思う。人を赦せないでいるあなたは、本当にクリスチャンなのかと問われている気がするからです。
 
 それでは、16節でパウロが、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」と言っているのは、どういうことなのでしょうか。人を赦せない、まさに罪人の私がいて、この私はどのようにして、律法の実行を伴わないで、つまり、人を赦すことができないままで、赦されるのでしょうか。そこで、この16節の「イエス・キリストへの信仰」となっている御言葉ですが、原文を直訳しますと「イエス・キリストの信仰」とあります。「イエス・キリストへの信仰」とすると、私たちがイエス・キリストを信じることと受け取れますが、ここは「イエス・キリストの真実」とも訳すことができる言葉です。

 ですから、16節の「イエス・キリストへの信仰によって義としていただく」は、「イエス・キリストの真実によって義としていただく」と読み替えることができるのです。そして、この読み替えは、見逃すことができません。なぜなら、私たちが義としていただくのは、私たちがイエス・キリストを信じることによってではなくて、イエス・キリストの真実によって私たちを義としてくださる、ということになるからです。主イエスが私たちの罪を赦してくださるための十字架に示されている、その愛によって、その真実さによって、私たちは赦される。神さまの民としていただけると言うのです。そこで問われているのは、イエス・キリストの真実であって、私たちの信仰の真実ではありません。

 ある説教者は、このことについて次のように語っています。
 「キリストに対する信仰において本当に決定的なのは、私たちの実行やその時々に信じている私たち自身の行為としての信仰ではないのです。私たちの信じる心の姿勢が決め手になっているのではなく、私たちの信仰の中で主イエスが真実な方であることが決定的なことです。キリストを信じるとき、その信仰の中に私たちの迷いや偽善が働いたとしても、その私たちをキリストの真実が支え清めてくれます。」と。

 パウロは、20節で「キリストへの信仰」を「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」と言い換えています。このイエス・キリストの十字架に、キリストの真実があります。私たちの怒り、私たちの疑い、私たちの欲望、私たちの嘘のすべてを、イエス・キリストが十字架で負って、私たちを赦し、私たちを、今、ここにあるままで、神の民としてくださる。20節の御言葉を見ると、そのことは更に確実です。そこには、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と、ここに「肉において生きているのは」とある「肉」というのは、私たちが生きているこの世の現実、私たちが罪の中であえいでいるこの現実のことです。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙1章21節で、「わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」と語っています。今朝の19節には、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と記しています。この肉に生きるとは、この世に生きることであり、私たちはキリストと共に十字架に付けられています。その肉の苦しみを思えば、この肉から解放されて死ぬことは益です。しかし、「共に十字架につけられる」という言葉は、また主イエスと共に十字架につけられた、二人の犯罪人です。私たちも、この犯罪人ではないでしょうか。

 一人は主イエスの右に、一人は主イエスの左につけられている。マタイによる福音書23章39節以下には、「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言って主イエスを罵りましたが、もう一人は、それをたしなめて「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言い、そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」
とあります。すると主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。

 私たちに求められているのは、主イエスと共に十字架につけられている中で、どうして私を救ってくれないと毒づかないで、わたしを思い出してくださいと願うことです。その時に主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と確約をしてくださる。それが主イエスと共に十字架につき、主イエスと一緒に楽園にいることなのではないでしょうか。だから、私たちが肉において生きている時に、その信仰の中に、迷いやためらいや、利己心や嘘が入っていても、主イエスはそれを咎めることはなさいません。ただ、この罪人のことを忘れないでくださいと願うなら、主イエスの真実は、私たちを楽園に伴ってくださるのです。

-祈り-
 主イエスの父なる神さま。あなたは私たちを救われるために、御子を十字架につけて私たちにその命をくださいました。私たちは、この罪を身に負ったままで、あなたの愛の真実によって、御国に相応しい者としてくださっていますことを感謝いたします。そして、ともすると、私はあなたを非難してしまうことがある不信仰なものですが、あなたの十字架に共につけられている者として、ただあなたの真実により頼んで生きることができますように、私たちを支え、清めて、導いてください。
 主イエスの神さま、私たちの罪によって、この世界には今、大きな戦争が続いています。今、この時に、流血をもってしか問題を解決できない、人間の愚かさを思わないではいられません。そして、これは決して人ごとではなくて、人間存在の罪によるものであることを、私たちは心に刻まなければなりません。それにしても、戦禍に巻き込まれて奪われる数多の命を、神さま、どうか忘れないでください。そして一日も早く平和を取り戻すことができますように。世界は今、あなたを見失っています。どうか世界が、心を一つにして、平和のために祈ることができますように。この世界の中で、私たちは本当に小さな存在ですが、この世界のために、あなたの祝福を祈る一粒の種としてください。
 このお祈りを、私たちの主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。                          
 アーメン

鴻巣教会 長村亮介牧師
(おさむら りょうすけ)
 





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