2024年1月のみことば |
見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 (マラキ書3章19~24節) さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。 『主の道をまっすぐにせよ』と。」 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 (ヨハネによる福音書1章19~28節) |
●到来を待つ アドベントを過ごしました。アドベントだけではありません。私たちはいつも待っています。主の祈りにおいては「御国を来らせたまえ」と唱え、日本基督教団信仰告白では「主の来りたもうを待ち望む」と唱えます。新約聖書の最後、ヨハネの黙示録22章の最終ページには「主イエスよ、来てください」とあります。この言葉は今も鳴り響いています。私たちは待つことをやめません。止めることができません。もし、待つことをやめたら、それは絶望です。光が消えて前に進めなくなり、途方に暮れて立ち尽くし、座り込んで「座して死を待つ」ということになります。パウロの言葉を借りるならば「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」。自暴自棄に、投げやりに生きるということです。私たちは希望の中を生きなければならない。目には見えないけれど、希望がある、必ず来る、確信を持って歩んでいるのです。 ●マラキ書は 旧約聖書の最後の書物です。3章19節以下は、旧約聖書の最後の最後「終わり」です。最後の言葉は「破滅」。日本語では「破滅をもってこの地を撃つことがないように。」で終わりますが、元々の語順では「破滅」が最後の言葉となります。ついに終わる、旧約聖書の最後は恐ろしい終わりなのですが、マラキ書の最後は新約聖書の「始まり」にも接しています。つまり絶望と希望を語る書物でもあります。マラキ書の時代、神様を畏れ敬う人たちはいました。しかし、高慢な者や、悪を行う者、神様をあざける人たちに囲まれて、希望を失いそうになっています。その人たちに預言者マラキは希望の言葉を語ります。神様の道を歩むこと疲れた人たちに、希望の言葉で、神様の言葉で励ましているのです。 ●2つのグループに分けて マラキは語ります。一方のグループは高慢な者、悪を行う者です。高慢な者は言います。「神に仕えることは虚しい。戒めを守っても、謙虚に生きても、なんの益にもならない。高ぶっても、悪事を行なっても、罰を受けることはない。事故や悲しい出来事に遭うのは良い人も悪い人も同じ。重い病に罹るのはクリスチャンでも、無神論者でも同じ。神様に従っても健康と繁栄が約束されるわけではない」、「神様に仕えるために自分のしたいことを我慢してどんな利益があるというのか?」悪を行う者は神様を侮るのです。 悪を行う者は人類の最初からいました。創世記のカインがそうでした。正しい弟アベルの献げものを神様が喜んだのをねたみ、弟を殺してしまった兄カインです。悪を行った者です。それでもカインは生きました。その後、文化の発展に貢献したのはカインの末裔、牧畜のノウハウを作ったのもカインの末裔、音楽を発展させたのもカインの末裔、金属の道具を作ったのもカインの末裔。カインの末裔は繁栄している。 神様は何が起こっているのか見ていない。この地上で誰が何をしても気にしない。正しい者と悪しき者を区別しない。そのように主張する人々が、高慢な者、悪を行う者です。 ●もう一方のグループは 「わが名を畏れ敬うあなたたち」です。神様を侮る人たちに囲まれながらも、神様に従おうとする人たちです。この人たちも悩んでいます。何もしてくださらないように思える神様を嘆き、神様に不平を言い、神様と格闘するようにして叫ぶのです。しかし、それは神様を信頼しているから叫ぶのです。神様が宇宙の全てを支配しておられる方であり、民を思いやる方であり、全てを見ておられる、正しい方であると信じています。なぜ全てをご存知なのに、助け出してくださらないのですか! と叫んでいるのです。そして、主は応えてくださいました。マラキ書の最も大切な点は、神様ご自身が語られた言葉を記した点にあります。それは、主が動いてくださる日が来ること、神様ご自身が歴史に立ち入られ、神様の子と呼ばれる人たちと、そうでない人たちとの間に決定的な違いを示される日が来るということです。 高慢な者、悪を行う者、神様を軽んじる者には怒りの火。炉の中に投げ込まれ、根も枝も灰となり、完全に焼き尽くされる裁きの火です。主を畏れる者たちには義の太陽の暖かい火。春の朝、昇る太陽のように穏やかに暖まり、癒される。暖かい炎です。嬉しさのあまり、子牛のように飛び跳ねるその日が来るのです。では、私たちは「その日」に向かって、どう生きれば良いのでしょうか? ●それはモーセとエリヤです。 「モーセの教えを思い起こせ!」、それは、モーセに与えられた律法です。ホレブ山でモーセに与えられた律法は、神様から選ばれた民としてふさわしく生きるための契約でした。契約を守り、奉仕と献身に生きる民として召されたのです。それは、高慢な者たちが守るに値しないと見なしていたものです。 「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」、預言者は律法の契約の仲介者であり、民に契約違反を確信させ、呪いが下らないように悔い改めて神に立ち返るよう呼びかけるのです。粗布をまとい、灰の上に座って悔い改めることを呼びかけるのです。それは、悪を行う者たちが「何の益にもならない」と見なしていたことです。 マラキは、エリヤの足跡を忠実に歩みました。旧約聖書の最後の預言者として生きました。マラキは民に神様への悔い改めと従順な生活を呼びかけましたが、どうやら積極的な反応はあまりなかったようです。親たちの心は子に向けられず、子供たちの心は親に向かわなかったのです。多くの人たちは、神様は愛の神だから、全てを赦してくださる、そう思って侮っていたのです。何を考えても、何を言っても、どう生きてきたかは関係なく、最後には神様はすべてを赦し、和解してくださる。 ●私たちもそう思っていないでしょうか? 神は愛に満ちておられるので、結局、誰も地獄に送ることはなしないのだと。それはまるで、サンタクロースのような神様です。サンタクロースは、子供達に配るプレゼントのリストを2度チェックしているかもしれないけど、最終的には、その子がどんなにいたずらをしても、その子もプレゼントはもらえる。クリスマスの朝には、悪い子と良い子との間に特に違いはないのです。 しかし、神様はサンタクロースではありません。神様は焼き尽くす火であり、この世で起こるすべてを見ておられ、一人一人の名前が天に書き記されていて、ご自分の民である者とそうでない者を最終的に区別する裁きの日を定めておられるのです(使徒17:30-31)。イエス様ご自身が、来るべきこの恐るべき裁きの日について最も明確に語っています。その裁きの日とは、全人類が羊と山羊に分けられる日であり、一方はイエス様に属し、永遠の神様の都に迎えられる人、もう一方は裁かれ、永遠の罰に送られるのです(マタイ25:32〜)。 ●マラキの預言は 警告でしたが、そこには良い知らせもあります。マラキは、この世には「高慢な者」と「神様の名を畏れ敬う人」という2つのグループの違いが明らかになる日が来る、というだけではありません。最後の審判の日が来るまでの間、固い心を受け入れる心に変え、侮りの言葉を罪の告白と悔い改めの言葉に変えるために、神様が何をしておられるかを指し示しています。神様は今もなお、心のかたくなな者たちや迷える者たちの間で働いておられ、異邦人やよそ者を、ご自分の愛する息子や娘に変え、神の民の一員に招いておられるのです。 ●ヨハネによる福音書1章には 神様が動かれた、ご計画を実行にうつした、その初めが書かれています。神様は決断されました。まず、ヨハネを遣わしたのです。ヨハネは「主の道をまっすぐに」するために派遣されました。神様のその日が動き出したのです。 「大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」ヨハネの登場は鮮やかであり、ユダヤ人たちはこの人こそマラキ書の預言が遂に成就したのだと思いました。しかし、ヨハネはエリヤを超えていました。遠い未来を指し示すのではなく、救い主と同時代に生き、直接指し示す人となったからです。 イエス様が来られます。救い主の誕生は人々の予想もしないかたちでした。ヨハネを準備のために派遣し、後から来られる方は神様ご自身だったのです。それも人間の無力な赤ん坊として、最も貧しいものとして、この世に生まれるかたちをとったのです。 マラキ書の警告する日、最終的な裁きの日はまだ来ていません。裁きの試練の時に人間の本性は暴かれます。選ばれた者、召されたものが明らかにされ、私たちは神様の威厳を見せてくださるときが来るのです。 間に合ううちに悔い改めてイエス様のものとに走るか。それとも、神の愛がわからず、神様を軽んじて、神様の正義を拒否する人たちのように神様から離れ去るか。どちらか。 神様から与えられた恵みに感謝し、イエス様の希望に向かって走るのか。それとも、神様の正義を疑って応えないか。どちらか。 ●私たちは待ちます。 その間、神様の声をモーセとエリヤを通して聞くのです。イエス様が再び来られることを待ちながら。それは、この世ではよそ者、異邦人として生きる生き方です。 モーセとエリヤは、私たちに苦難の道を示しただけではありません。まったく耐えられないような重荷を背負わせたままではありません。モーセとエリヤは私たちの唯一の正しさであるイエス様を指し示しています。私たちが律法を守れずに、多くの失敗を繰り返す毎日の中で、聖書はいつも私たちを、義の太陽であるイエス・キリストへと導きます。イエス様は、単に私たちの完全な模範であるだけでなく、私たちを救う方です。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架につけられ、死んで葬られただけでなく、私たちために死者の中からよみがえられ、天に昇られ、また、栄光のうちに私たちを迎えに戻って来られます。 その栄光の到来を待つ間、私たちは互いに励まし合いながら、互いに語り続けるのです。神様は、ご自分に完全に仕えた御子キリストに よって、すでに私たちに大きな憐れみを示してくださいました。 その日、悲しいことはすべて過ぎ去ります。私たちの涙は拭われ、悲しみは慰められ、病は癒され、失ったものは回復されます。その時、春の日差しを浴びて喜ぶ子牛のように、イエス様の救いの大きさと完全さを喜び、イエス様が私たちに語ってくださる恵み深い言葉を喜ぶ日です。それは必ず来るのです。 |
大宮教会 甲賀正彦伝道師 (こうが まさひこ) |
今月のみことば | H O M E |