2024年2月のみことば

希望を持って生きる

 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
               (テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節)


 この箇所は、「兄弟たち、……ぜひ次のことを知っておいてほしい」という使徒パウロの篤い思いから始まります。「知らずにいてもらいたくない」とも訳せます。そうパウロが念を押しているということは、この大切なことを知らずにいる人が結構多いということでしょう。

 大切なこと、それは「既に眠りについた人たちについて」です。キリスト教では、死ぬことを「眠る」と表現します。つまり「眠りについた人」とは、「死んだ人」を指すのです。しかし、「眠りについた人たち」は、永遠に眠るのではありません。眠るからには、起きる時が必ずやってくる。そう信じて、眠りについたのです。では、いつ起きるのか。私たちの救い主であるイエスさまが、再び来てくださる、再臨の時に起き上がるのです。

 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。「眠りについた人たち」は、必ず起き上がる、という希望を持って眠りについたのです。だから、残された私たちも、嘆き悲しまなくてよいのです。とは言っても、たとえ、御国でまた会えると信じていても、愛する者を失えば、私たちは悲しいのです。しかし、聖書は「嘆き悲しまないために」と語ります。死に対する悲しみがあることを、聖書は知っています。(イエスさまも、愛するラザロが死んだ時、涙を流されました〔ヨハネによる福音書11章28~37節〕)。けれども、イエスさまを信じる私たちにとって、死の悲しみは、手遅れであるかのような、決定的な、絶望的な悲しみではない。パウロはそう告げたいのです。

 私たちに悲しみがあるとしても、絶望的に嘆かなくてよいのは、イエスさまの復活があるからです。「イエスが死んで復活された」。この事実ゆえに、私たちは、嘆き悲しまなくてよいのです。墓から出て来られ、死に勝利されたイエスさまがおられる。だから、私たちは悲しみの中にあっても、絶望しないのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。ここで語られるのは、眠りについた人たちが、今、どうしているのかではなくて、神さまが彼らを「イエスと一緒に導き出してくださる」という希望です。イエスさまが復活なさったという事実が、眠りについた人たちの復活をも確実なものとしてくださる。それが、知らずにいてはならない大切なことなのです。

 イエスさまの再臨の時には、「主御自身が天から降って来られます」。私たちが頑張って、イエスさまのもとへ行くのではありません。イエスさまが、私たちのもとに来てくださるのです。そして「空中で主と出会う」。イエスさまが支配しておられるところは、地上だけではありません。イエスさまがこの世界の隅々、地上も、天上をも、支配してくださっているとは、何という慰めの言葉でしょうか。そして、再臨の時、イエスさまと再び出会った私たちは、「いつまでも主と共にいる」のです。

 死の力も、神さまの恵みから、私たちを引き離すことはできません。その根拠は、「イエスさま御自身が死んで復活された」ことです。この事実は、私たちの慰めです。そして、私たちは、イエスさまの復活を信じ、希望を持って生きるのです。

春日部教会 平澤巴恵伝道師
(ひらさわ ともえ)
 





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