2024年3月のみことば

新しく生まれかわるということ

 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
               (ヨハネによる福音書3章1~14節)


  「もし、生まれ変わったら、もっといい家に生まれたい」「生まれ変わって、学生時代からやり直したい」半分冗談で、半分真面目にそんなことを口にしたことがある人は多いでしょう。ちょっと意味は違いますが、聖書には生まれ変わるということについて、書かれています。

 この聖書の個所では、ニコデモという人が出てきます。ファリサイ派の議員であったといわれています。教養も地位もある人です。人に見られたくないと思ったのか、夜イエスを訪ねてきました。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさっているようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と、イエスに言いました。どこかでイエスの奇跡を見たか聞いたかしたのでしょうか、この方の話を聞けば、何か変わるかも、と思ったのかもしれません。イエスはニコデモに言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ちょっと聞きかじったくらいでは、神の国はわからないよということかもしれません。

 すると、ニコデモが答えて言いました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」こんなことを言う人も珍しいと思うでしょう。私たちは日常的に、慣用句のように「生まれ変わる」という言葉を使っているからです。「生まれ変わったつもりで真面目にやろう」とか「大自然の中で生まれ変わった気分だ」などと言ったりします。しかし、イエスの言われることは、ニコデモが言うようなことでも、私たちが例えで言うようなことでもありません。

 イエスは言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」ニコデモでなくても、?となりますが、クリスチャンの方は、水と霊によってというのは、洗礼のことだと気がつくでしょう。ニコデモが言うのは肉のことで霊のことではありません。霊というのは、風に例えられます。確かにその力や存在は感じられるけれども、人にはわからないところがある。新しく生まれるということも、世の目にはわからなくても、確かなことであるということです。

 ニコデモがなお、納得せず、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と言うと、イエスは言われました「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」と言われました。その後の言葉は少し省略しますが、イエスは聖書で示されている神を示し、地上であかしをしているのに、それがわからなくて、どうして天の神がわかるだろうか、と言われ、人の子といわれるイエス・キリストのほかに天上の神を知る者はなく、十字架にあげられ、人の罪をあがなうことによって、信じる人が、永遠の命を受ける、すなわち生まれ変わるのだ、ということを話しておられます。

 洗礼によって生まれ変わるとか、イエスが復活されたとかいう話は信じられない、という人は多くいます。そして、自分のこと、世のことは見えていて、わかっていると思っています。しかし、何故世界はつくられ、人は存在するのか、人は何のために生まれ、死ぬのか、永遠とは何か、わかっていないのです。人は神の知ることをすべて知ることはできません。しかし、神が教えておられることは知ることができます。それは神が人を愛され、イエスによってそれを示されたということです。

 そしてまた、神は人が神を愛し、人を愛することを望んでおられます。永遠の命がなにであるか完全にわからなくても、死から救い出されたことはわかる、世の始まりについて完全にわからなくても、愛されて生かされていることはわかるようにしてくださったのです。ただ、イエスを通して私たちは神の愛を知ることができるのです。

 新しい年、新しい服、そういうのは人が区切りをつけたり取り替えたりしただけですが、新しく生まれ変わるというのは、本当に新しいものになることです。意味の分からない空しい生き方から、神の愛にすべてをみたされる生き方へと変えられるのです。なぜ、といって苦しみの中にとどまるのではなく、神の愛によって新しくされ、自由に生きる者でありたいと思います。

朝霞教会 鎌木順子牧師
(かまき じゅんこ)
 





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