2024年4月のみことば

水を汲みし僕どもは知れり

  三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
                   (ヨハネ福音書2章1節~11節)


 「ヨハネ福音書」には、主イエス様が真の神様であり「メシア」と呼ばれる「救い主キリスト」であることを証しする7つの「しるし」があります。聖書学者によっては「7つ」プラス「主イエス様の甦り、復活」を加えて、「8つ」とする方もありますが、聖書の完全数が「7つ」なので「7つの徴(しるし)」、「7つの奇跡」とされています。その「最初(第一番目)の奇跡」から、主イエス様の御心を知らせていただきましょう。

【1】カナ村の婚礼
 「ガリラヤのカナ」(2章1節)は、主イエス様がお育ちになって約30歳までお過ごしになられた「ナザレ村」から、北に約14kmのところにあり、「歩いて半日の所」にありました。そのカナ村の婚礼に、イエス様とお母さんのマリアがいたのでした。多分、この婚礼の花婿と主イエス様のお母さんのマリアは親戚関係だったのではと考えられます(2章3~5節)。また、お母さんのマリアと息子のイエス様は当然のことですが、それに加えて「その弟子たちも婚礼に招かれた」とあります(2章2節)。

 しかし、当時の婚礼は、現代のそれとはだいぶ違っていました。現代では、親族か家族や友人が結婚式、そして披露宴に出席することが多いと思いますが、2000年前のユダヤの国では、女性が婚礼の宴席にでることは許されなかったものですから、息子であるイエス様が宴席に出て、お母さんマリアは「裏方のお手伝い」をしていました。更に、当時の婚礼はと言いますと、現代の日本と大きく違いました。何と1週間、長い時には2週間にも亘って行われたそうです。

【2】ハプニングへの対応
 リクルートが発行しています結婚情報誌に、以前こんな記事がありました。
 「今までに自分や知人の結婚式で『やっちゃった!』『見ちゃった!』という(ハプニングの)出来事があったかどうかを調査してみると、そういったハプニングが『あった』と答えた人は79.5%(8割近く)と、ほとんどの人がハプニングに遭遇しているようで、さらに、そのハプニングが『いつ起こったか』について聞いてみたところ、『披露宴・披露パーティ中』と答えた人が167人中102人と、最も多いことがわかりました。」

 幸せ真っ最中の現代のカップルの、実に「8割」が経験している「ハプニング」。皆様の中にも、当事者として、また参列者として御経験が有るかも知れません。まして、1週間にも及ぶユダヤの婚礼の祝宴ですので、その最中に「思いもよらぬこと」「想定外の事」が起こってしましたのでした。 

 続く「2章3節」を見て下さい。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」とあります。当時は、婚礼の祝宴に招かれた人々は、ふんだんに肉とぶどう酒のもてなしを受けました。特にぶどう酒は、婚礼の宴(うたげ)を盛り上げるものとしては欠くことが出来ないものでした。ところが、一週間に亘る婚礼の宴の最中に「ぶどう酒がなくなった」のですから、世話役も裏方のお手伝の人々も家の召使たちも、想定外の事態に「どうしたらいいか?」と戸惑ったに違いありません。それは、花婿と婚礼の世話人、そして両家の親を始め、家族にとって不名誉きわまりない、末代まで語り継がれても仕方のない大恥、大失態でした。

 この時、祝宴の裏方としてお手伝いをしていた、多分「親戚の一人」のマリアの心に浮かんだのは、日頃、頼りにして来た長男イエス様でした。イエス様は、当時「およそ三十歳」(ルカ3章23節)でした。ユダヤでは、13歳で成人式をして一人前と見なされるのですが、その社会で30歳というのは、しっかりしたことの出来る年齢です。また、イエス様は若くして父親のヨセフを亡くされたと考えられています。「マタイ福音書13章55,56節」や「マルコ福音書6章3節」によりますと、イエス様は弟が4人、それに妹たちもいたことが記されていますので、父ヨセフの亡き後に大工として母親のマリアと共に6人以上の弟たちや妹たちの親代わりになって、あらゆることで兄弟姉妹らの面倒を見て来られたのでした。ですから、母親のマリアにとっては何よりも頼もしい長男であった訳です。

 ですからマリアは、親戚の婚礼の祝宴の最中に起こった予想外の不名誉な出来事に、何とか助けが与えられるようにと、いつも頼りにしていた長男のイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのでした。多分ですが「だれか近所に知った人があれば、ぶどう酒を分けてもらえるように都合して来てほしいのよ」と願ったのでしょう。しかし、この時のイエス様の答えは、母のマリアにとっても、現代の私達にとっても意外なものでした。次の「2章4節」には、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」とあります。自分を頼りにしてくれている母親からの願い事なのに、イエス様は一見しますとその願いを「突き放すような言葉」で返事をされています。

 しかし、その内容をよく見てみますと、その時の主イエス様のお立場がしっかりと表現されています。最初の部分の母親のマリアに対して呼びかけられた「婦人よ」という言葉は、別の翻訳聖書ですと、高貴な女性「貴婦人」を呼ぶ時に用いる呼び名でして、別の聖書には「女の方」と翻訳されています。

 実は、2000年前の当時から少し遡ること約60年前の「紀元前(BC)30年頃」に、ローマ皇帝のアウグストゥスが、エジプトの女王で、数々の逸話で有名で、絶世の美女として名高い「クレオパトラ」を呼ぶのと用いたのが、この「婦人よ」「女の方」という呼び名でした。
 主イエス様は、自分の産みの母親に対いて「おかあさん」「おかあちゃん」「おっかー」ではなく、「婦人よ」「女の方」「ご婦人よ」と大国エジプトの女王にも用いるような「呼び名」で呼ばれたのでした。そして主イエス様は、続いて「わたしとどんなかかわりわりがあるのです」と仰ったのです。

 これは、主イエス様が母親のマリアを「つっけんどん」にして、突き放して言っておられるのではありません。先程の貴婦人を呼ぶ敬称の「婦人よ」「女の方」という呼び名といい、また「どんなかかわりがあるのです」という言い方といい、それらは母親のマリアが主イエス様御自身のことをこれまでと同じように「自分の息子として」困ったことが起こったなら「何でも頼ることの出来る長男として」頼るという立場から、一転して「世の人々の救い」のために公の伝道生涯に立ち、本来の「神の独り子」、「メシア(キリスト)」としての立場になったことを丁重に示された瞬間であると考えられるのです。「お母さん、もう私は人々の救いのために、メシア(キリスト)として立ち上がったのですよ。」と言いたかったのでしょう。

 ですから、続いて「わたしの時は、まだ来ていません」と仰いました。この「わたしの時」というのは、「ヨハネ福音書」にはこの「2章4節」を皮切りに、実に「8回」も記されています。それは「どんな時か?」と言いますと、主イエス様が全ての人の犯した罪の報いとしての、永遠の滅びという罰を身代わりになって受けるためにゴルゴダの丘に立てられた十字架に架られ、事切れ、死なれ、尊い血潮を流して、三日目に復活されて「メシアとしての栄光」に輝かれた時のことです。
 言い方を代えますと、母マリアが「ぶどう酒がなくなりました。都合してください」と願いった時、既に主イエス様は、今までの「マリアの息子で頼もしい長男」から、その時はもう「救い主メシア(キリスト)」として「公の伝道生涯」に入って、全ての人の救いのためにメシアとしての歩みを始められた時だったという意味です。

 他人行儀のようですが、公私の区別はどこででも大切です。世間でも政治の世界でも、私共牧師の「牧会の世界」でも公私混同は許されません。勿論、親子の情、生まれてこの方30年に亘る「家族の絆」。特に、夫を早く亡くして息子頼みのか弱い母親マリアの気持ちは痛いほど感じるイエス様でしたでしょう。でも、その情にほだされてしまわれたら、イエス様御自身が後に言われたお言葉で、主に召された献身者への御言葉「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ福音書9章62節)この御言葉が、将に空言、むなしい偽りの言葉になってしまいます。ですから、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ福音書2章4節)とあえておっしゃったこの言葉は、その時の主イエス様には「大変大事なご宣言」「時代を画するご宣言」だったのです。

 私は、神学生時代5つの教会で実習させていただきましたが、その中の一つに主日礼拝で200名前後の出席者がある神戸市内の大教会での奉仕がありました。その教会には教職に任職された牧師夫人がおられました。また、その牧師夫人の実の姉が同じ教会で信徒として熱心に仕えておられました。しかし、その信徒の立場にあるお姉さんは、私の1年間の神学生奉仕の間に一度も教職である妹さんの前で、身内のお姉さん立場を取られることはありませんでした。いつも妹さんのことを「〇〇〇先生」と呼んでお従いしておられました。もちろん年恰好から言っても、人生経験においてお姉さんの方が多く積んでおられたでしょうし、信仰生活も長いでしょう。でも、常に「教師」と「信徒」。妹と姉ではなく、「教師」と「信徒」の立場でした。それは、本当に感心させられたことです。

 話を聖書の「ヨハネ福音書2章」に戻しますが、この時、主イエス様も神様の前で今までの「マリアの息子」としての御自分の立場から、全ての人の救い主・メシアとしての公の立場に変わっていることをハッキリと自覚して、「婦人よ、(女の方、あなたは)わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と母親のマリアに答えられたのでしょう。
 一方、母親のマリアは、今までの「頼もしい息子イエス」の事が忘れられません。そんな簡単に、「親」と「子」の関係を捨てて、「救い主」と「信者」の関係に切り替えることなど絶対に出来ない訳です。ですから、続く「2章5節」には「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」とあります。

 ここに、私達人間の自己都合の信仰が現われています。ある牧師はこういわれます。「主イエス様にお願いすることは、決して悪いことではありません。しかし、だからといって、自分の思い通りに主イエス様を動かそうとしてはいけないのです。イエス様は、人間の僕ではありません。イエス様が、私たちの言うことを聞かれるのではなく、私たちが、まず、主イエス様の言われることに耳を傾け、それに従うことが大切なのです。」

 キリスト教信仰とは、この世に多く存在する「自分勝手な願いを叶えるために神々を呼び出す」、どこかの神社にお参りする「ご利益(ごりやく)信仰」ではありません。キリスト教信仰は、まず「聞くこと」から始まります。「願う」前に御言葉を「聞くこと」から始まります。「ローマの信徒への手紙10章17節」の有名な御言葉に、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とある通りです。

【3】最初の奇跡(2:6~10)
 主イエス様は、母親のマリアの願っていたことは置いといて、全く異なった方法で必要を満たして御自分が「救い主であり、神である」栄光を表されたのです。「2章6節、7節」には、「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」とあります。

 その婚礼の祝宴の開かれているユダヤ人の家庭は、「2ないし3メトレテス入り」の「石の水がめ」が6つもありました。1メトレテスは、約39Lですので「2ないし3メトレテス」とは約80L~120L入りの水がめが6つ、合計600L前後の水を貯えることが出来ました。今はあまり見られませんが200L入る「ドラム缶」の3本分です。そのような大量の水が入る「水がめ」に、全て「水をいっぱい入れなさい」と主イエス様は召使に仰ったのです。

 このイエス様のお言葉(御言葉)に、なんと召使たちは聞き従いました。彼らは井戸から約600Lもの水を汲み上げて、6つの水がめの全てを「かめの縁まで水を満たした」のでした。ドラム缶3本の水を井戸から汲み上げて、水がめに満たしたのでした。電動ポンプがあるわけではありません。桶をもって井戸に行き、一杯、一杯、汲み上げて、水がめの所に持って来たのでしょう。そこには、主の御言葉に従う召使の姿がありました。主イエス様のお言葉(御言葉)を信じて召使たちは従ったのでした。そして「その時」奇跡が起こりました。

 次の「2章8節~10節」には「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」とあります。約600Lの「水かめの水」が「とびっきり良い、上等のぶどう酒」に変わったのでした。主イエス様の御言葉に聞いて、信仰をもってお従いする時に奇跡は起こります。神様が栄光を現わしてくださるのです。

【4】水汲みし僕は知れり(2:9~11)
 ところで、ここで注目したいことがあります。この奇跡について祝宴の責任者である世話役は、何も知らなかったということです。主イエス様の御言葉に聞き従って忠実に井戸から水を汲んで労した召し使いだけは、「水がぶどう酒に変わった」不思議な出来事、奇跡を知っていたのですが、「御言葉を聞くこともなく」、「労することもなかった世話役」は、目の前に「奇跡のぶどう酒」を見て、更に味見をしても、主イエス様のなさった奇跡の御業を悟ることはありませんでした。

 昔から「水汲みし僕は知れり」と申します。「主イエス様の御言葉に聞き従って、労した者だけが、奇跡を知っている、体験できる」というのです。

 私は、27年近く前に東京の教団渋谷教会で伝道師として奉仕をさせ頂いていた時、「活水の群」の埼玉県北部の深谷市にある「深谷西島教会」が、牧師も牧師夫人もおられなくなって「無牧」教会になり、更に信徒が集まらず日曜礼拝も出来ないので、看板を下ろして閉鎖するか、それとも何とか「深谷西島教会」の看板だけでも残すために若い伝道者を遣わそうかと群の理事会他で検討されていたのでした。その時丁度、次の赴任教会が導かれるように渋谷教会で待機していた私に、よく言えば「白羽の矢が当たった」のでした。言い方を変えて真相に近く言えば「お鉢が回ってきた」のでした。その時、私には妻と小学校4年生の娘と2歳の息子がおりましたので「どうしようか」と思いましたが、2ケ月後に「イザヤ書42章」の御言葉が与えられました。「(彼は・・・)傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ書42章3節)

 この御言葉に心を動かされ「御言葉の通り教会再建をされる主を信じて」。まず家内と長女に相談したら一家で行くことを承諾して入れたので、深谷に赴任する決意をしました。その後、その御言葉の約束を握る信仰が「本物かどうか?」試されました。入居予定の牧師館が、突然入居できないことになってしましまして、その「イザヤ書42章3節」の御言葉信仰が、ゆすぶられ試される期間がありましたが、でも主なる神様はご真実です。その後、再び深谷西島教会への赴任の道が開かれまして、25年前の1999年4月1日から閉鎖されていた教会の礼拝堂の扉を開き深谷西島教会の活動を再開しました。

 でも、そこにあったのは地盤沈下で床が傾いた築35年の礼拝堂での数人の礼拝でした。その初年度の「1999年度」は、私が説教し、家内が奏楽し、小学校6年生の娘が気を聞かせて礼拝堂の長椅子に腰かけて、私の説教を聞いてくれていました。保育園の年中の息子は、家族以外だれもいない礼拝堂で遊んでいました。そんな、家族だけの礼拝が教会活動を再開した最初の年1999年度は2回もありました。それは当然で、前任の牧師夫人はご主人の主任牧師を天に送られた後、3年半の間に日曜日礼拝に一人も集まらず一人で礼拝をされていたことが大方だったのですから、私達一家が赴任しても直ぐには教勢は変わりませんでした。

 そんな中で赴任して1年ほどして、借地であった教会の土地を買い取って建物を建てるようにと神様の御心を示されたのでした。しかし、その時の深谷西島教会は、現住陪餐会員5名。その内一名は病床にあって記憶が薄れていた隠退教師の牧師夫人で、一名は中学1年生の我が家の娘でした。だれも新会堂が建つとは思ってもいなかったのでした。

 でも、数少ない教会員は、何としても教会を再建するために土地を買い、建物を建てたいと祈って、全国の教会関係者に募金の趣意書を送りました。印刷した募金趣意書に手書きで「小さな教会ですので、どうか深谷伝道のため、借地買取・牧師館建築をご支援ください。」と一所懸命に、毛筆やマジック、ボールペンで書いて全国の日本基督教団教会と関係、また「活水の群」の関係教会と送りました。そしたら、皆さんが心配してくださって建築献金を送ってくださいました。毎日のように「3万円」、「4万円」と募金が送られてきて、家内が最寄りの郵便局から、月曜日から金曜日まで毎日、それを引き出しに行って、法人口座のある教会の西側の銀行に入金し、領収証を発行しました。
 ある時は、全く知らない、今まで何の関係もない茨城県の教団教会の信徒の方が100万円の建築献金を送って下さいました。また、当時の日銀総裁の速水優さん(日本基督教団阿佐ヶ谷教会教会員)が、1万円の献金を送って下さいました。

 そうこうしているうちに、総額5千数百万円が集まり「土地と新会堂の建築費用」が満たされ、公簿面積107坪の商業地域の土地に、床面積が約60坪の「新会堂兼牧師館」が、2001年のクリスマスの直前に建ちました。その時、祈って募金趣意書に手書きの「お願い文」を書いてくださった人たちは、「神様が奇跡を起こしてくださった。神様は生きておられる。」と主の御業の素晴らしさを知りました。

 関係団体の月刊誌の「活水」に載った信徒の証にはこうありました。「私とM姉とH姉と牧師夫婦で2,600万円余りの借地購入を総会決定して、教団教会と『活水の群』の諸教会に募金をお願いしました。その折の何千通もの募金趣意書には『小さな教会ですので、どうか深谷伝道のため借地買取・牧師館建築をご支援ください。』と手書きで書き加え郵送しました。更に、教会関係者全員で趣意書に手書きを書き加えましました。それでその頃はその手書きのため午前0時前に就寝したことがありませんでした。お陰で募金目標の1,000万円を大きく上回る献金が全国から集まり、逆に私は驚いてしまいまして、主の聖名を崇めました。そこで、私は牧師館だけでなく、傾いている礼拝堂の代わりに新礼拝堂を建て、二階部分に牧師館を上乗せすることで、高価な敷地の半分を駐車場(十台分)にする提案をして、懇意にしていた建築会社に床面積60坪約2,300万円の破格の工事費で新会堂建築をお願いする総会決定をしました。再度全国の教会に二次募金をお願いする趣意書を送りましたが、再び尊い支援を頂き、無事礼拝堂兼牧師館を2002年5月に献堂させていただきました。世間の人々は、『深谷西島教会の新会堂建築は、七不思議の一つ。』と言われます。私も『そうだ。よく出来たよ。』と思っています。」

 このように、主の御言葉を信じ、従っていった者だけが味わえる恵みがあるのです。「水汲みし僕は知れり」です。御言葉を聞いて、それに従って労した者だけが、神様の奇跡を見ることが出来ます。一方、御言葉を聞かず、労することもなかった世話役は、神様が奇跡を行われても何も気づかず終わってしまいました。

 これが、この世の人の姿ではないでしょうか。神様は、いつもこの世の人々を愛して働いておられます。一人一人のために御業をなし奇跡をおこなっておられるのです。しかし、人々は何も感じず、当たり前のこととして、神様を認めることも、奇跡を見ることもありません。もし私達が、現代おいても神様の奇跡を見、その栄光を拝したく思うなら、マリアのように自分の願いを主イエス様にぶっつけるのではなく、まず主の語られる御言葉に聞き従って水汲みの労を取った召使のように、与えられたことを忠実に労していただければと思います。

 その時、御言葉に聞き従って労した信仰者だけが、神様の奇跡、神様の栄光を拝することが出来るのです。「神様が生きておられる」ことを知ることが出来るのです。2000年前も、20数年前も、現代も変わりません。現代の私達にも同じ神様がおられます。主イエス様の御言葉を聞いて、従い、与えられた労を厭うことなく、素直に受け取って参りましょう。その時「主なる神様の栄光を拝する恵みの数々」を知ることになるでしょう。その時「神様は、生きておられる」と聖名を崇める幸いに至らせて頂けます。

深谷西島教会 竹内紹一郎牧師
(たけうち しょういちろう)
 





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