2024年5月のみことば

恐れることはない

  夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
                   (ヨハネによる福音書6章16〜21節)


 私たちの人生は、しばしば船旅にたとえられることがあります。人は、大海原を船に乗って進んで行く。穏やかな波に安らぐこともあれば、嵐が来て大波の中恐怖と不安を味わうこともある。様々な場所に立ち寄り、たくさんの人と出会いながら、船旅は進んで行く。人は出会いと経験を積み重ね人生が豊かなものとなり、終着点を目指して船旅をすすめる、人生とはそういうものだと言うのです。

 しかし、海や湖は自然のものであるため、その状態を荒々しくしたり沈めたりすることは、人間の力ではできません。だからこそ、何が起こるか分からない船旅は、人生にたとえられるのでしょう。「人生とは冒険である」という言葉もあります。私たちの人生には時として、自分の理解や力の範疇を超えた出来事が起こるものなのです。それが良いことの場合もあれば、困難ということもあるでしょう。本日の御言葉は、私たちに、そのような人生をどのように生きてゆけば良いのかを示してくれていると思います。しかも、それは、こうすればもっと人生が豊かになれる、というような人生訓ではありません。本日の御言葉は、人生の荒波の只中にある私たちに、神様はどのように関わってくださるのか、ということを強烈に教えているのです。

 本日の物語は、主イエスが弟子たちの乗った舟を前にして、湖の上を歩かれる奇跡を伝えます。ヨハネによる福音書が伝える五番目の奇跡です。直前には、主イエスが5,000人にパンと魚を与えた話があり、その最後で、主イエスは、群衆が御自身をユダヤ人のリーダーとして王にするために引き出そうとしていることを知って山に逃れました。残された弟子たちが、湖畔へ降りていって舟で湖を渡ろうとするところから、本日の話は始まります。

 6:1を読みますと、そもそも主イエスと弟子たちは、湖を渡って5,000人の給食の場所へとやってきていたということが分かります。17節の終りには、「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのとこには来ておられなかった」とあります。つまり、弟子たちは、帰りの舟旅を彼らのみで出発しようとしていたのです。マタイとマルコ福音書の並行記事では、主イエスが強いてそうさせたのだと記しています。そうでもなければ、弟子たちが主イエスを残して自分たちだけで舟を出すというのは考えにくいことです。しかしヨハネによる福音書は、ただ、弟子たちが自分たちだけで湖を渡っていったとだけ語ります。主イエスが戻って来ておられないのに、どうして弟子たちは自分たちだけで舟を出したのでしょうか。

 それは、この舟に乗る弟子たちの姿が、当時の教会の、そしてまた私たちの、この世における状況を象徴的に表しているからです。私たちの人生はしばしば船旅にたとえられると申し上げました。教会もしばしば舟によって象徴されます。聖書は、舟を教会にたとえて、弟子たちが皆その教会という舟に乗っていると言います。そして、弟子たちだけで漕ぎ出す舟とは、再臨の主イエスを待ち望む、私たちの教会の姿であるのです。

 この御言葉から私たちが知ることは、信仰者の人生は、一人ではない、ということです。そして、教会という舟は、見ず知らずの人たちがたまたま乗り合わせている訳ではありません。乗っているのは皆、主イエスによって召された弟子たちです。主イエスを信じて従う者たちが共に乗り込み、目指す地に向かって漕ぎ出し、湖の上を渡っていく、それが、この世における教会の姿なのです。私たちが洗礼を受けて教会に連なる信仰者となったということは、この舟に乗り込み、信仰の仲間たちと共に、一つの目的地に向かって漕ぎ出した、ということなのです。

 しかし、弟子たちの船旅に主イエスのお姿形が見えないのと同じように、私たちにとっても主イエスを目に見える存在として見たり感じたりすることはできません。それによって、私たちが迷い出てこの世の荒波に飲み込まれてしまうという事態が、時として引き起こされるのです。

 18節には、「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」とあります。この世の現実は確かに厳しいものです。悲しいこと、つらいこともたくさんあります。平穏無事に舟を進めることは、私たち一人ひとりの人生においても、また教会の歩みにおいてもなかなか難しいものであります。しかも、そこに共に歩まれているはずの、主イエスのお姿形は目に見えないのです。

 教会へ行けない、祈れない、聖書を読めない。私たちは、信じる者であっても、時として、そのような事態になるほどに落ち込むことがあります。生活の悩みであったり、人間関係であったり、仕事のことであったり、何かのきっかけ、悩み、不安、悲しみで押しつぶされ、神様どころではなくなる。神様ではなく、不安に支配されてしまう。また、この世の価値観に左右され、神様の御心を尋ねることから離れてしまうこともあるかもしれません。世間がこう言うから、常識ではこうだから、今までこうしてきたから、私たちがこうしたいから、そのような考えが、私たちの決断や教会の歩みの指針になってしまう。本日の御言葉で、主イエスのお姿が見えないまま、弟子たちだけが漕ぎ出した舟が、荒波に打ち付けられ、今にも沈みそうな弟子たちの様子は、まさに、この世における私たちの心、また、私たちの教会の姿を表しているのです。

 主イエス・キリストとは、そのような私たち、私たちの教会に対して、水の上を歩いて来られるという奇跡をもってやってきてくださるお方なのです。「二十五ないし三十スタディオン漕ぎ出したころ」に主イエスが現れてくださったと19節にはあります。それは約50キロの距離になります。この50キロとは、出発地点から目的地までのほぼ中間地点までの距離であるそうです。このことから、弟子たちが、湖の岸辺ではなく、真ん中あたり、もう引き返すことも容易にできないような場所で、目的地までどうやっていこうかと大きな不安と恐怖の中にいただろうと、予想することができるでしょう。そんな弟子達のもとに、主イエス・キリストは水の上を歩いて来られたのです。

 自分たちの限界を知って不安を覚える者にとっては、もしかしたら、超自然的な奇跡をもってしてやって来られた主イエスのお姿もまた、恐怖かもしれません。私たちも、時として、私たちの想像をはるかに超える神様の導きに触れた時、神様への畏れを抱くことがあります。弟子達もそうでありました。弟子たちは、湖の上を歩く主イエスの姿を見て「恐れた(6:19)」とあります。他の福音書の並列記事では、それをさらに詳しく、弟子たちは湖の上を歩く主に向かって「幽霊だ」と言ったと伝えています。

 私たちがこの箇所において、心に深く刻みたい御言葉は、この時、主イエスが、弟子達に言われた言葉です。「わたしだ。恐れることはない(6:20)。これは、主イエスが、主を幽霊かと思うような怯えに対して「恐れることはない。」と言っているのではありません。主は、どんな嵐にも打ち勝つ平安を携えてやってきてくださる。それが、この「恐れることはない。」という言葉にはあるのです。ですから「わたしだ。恐れることはない。」という主の言葉は、わたしがいる、だから、安心しなさいということです。主イエス・キリストこそ、私たちを救ってくださる神の子であるということなのです。

 どうして主イエスが私たちを救ってくださるお方であるのか。その根拠が、主イエスが「わたしだ。」と言われるところにあります。「わたしだ。」これは、ギリシヤ語で「エゴー エイミ」となります。英語にすると「アイ アム」です。これは、ヨハネによる福音書の繰り返し出てくる非常に重要な意味を持つフレーズです。この物語の直後6:35では「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」という御言葉が語られます。これ以外にもヨハネによる福音書には、「わたしである。」に様々な表現を補った主の言葉が登場します

 この主イエスの言葉のルーツは、旧約聖書の出エジプト記第3章にあります。モーセが神様からイスラエルをエジプトから導く者としての召命を受ける場面です。同胞たちに神のお名前を尋ねられたらどう答えたらよいでしょうかというモーセの問いに対して主は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。つまり、主なる神が御自身を現され、そこに生きて働き臨まれているということを言い表す言葉こそ、この「エゴー エイミ」であるのです。

 湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られた主イエスは、この言葉をもって「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃいました。それはこの世の現実の中で、逆風に悩まされて漕ぎ悩み、死をも思わされるような恐れや不安を抱える弟子たち、信仰者たち、教会に、神の独り子、まことの神であられる主イエスが、神としての奇跡の力をもって来て下さり、共にいて下さるのだ、ということを示しているのです。

 そしてここで、私たちがもう一つ心に留めたい事柄は、最後の21節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」という記述です。聖書は、少し不思議な書き方をしていると思われた方もいらっしゃるかもしれません。弟子たちが主イエスを迎え入れて、目的地についたのではなく、「迎え入れようと」したら目的地についたと言うのです。つまり、主イエスが舟にお乗りになったのか、ならなかったのか。聖書はそれを明らかにはしていないのです。むしろ、そのことはもう書く必要がなかったということなのかもしれません。ここで大切なことは、弟子たちが主イエスを「迎え入れようとした」という事実です。「わたしだ。」と御自身が神であり、救い主であると言い表された主イエスに、どうぞこの舟にお乗りください、私たちと共に船旅を歩んでくださいと願った、その心によって彼らは目的の地に辿り着くことがゆるされたのでした。

 主イエスの「わたしだ。」という呼びかけに、「あなたこそ我が主、我が神です。」と応えるところに、私たちの人生の歩みは進められるのです。これこそ祝福に満ちた人生であるのです。その人生の終着点、目的地とは一体どこでありましょう。私たちはどこに向かって歩みを進めているのでしょう。本日の物語は、「すると間もなく、舟は目指す地についた(6:21)。」と締めくくられています。弟子たちの目的地はどこであったか、それは、カファルナウムであったことが、先の箇所6:24を読むとわかります。そこで、主イエスは「わたしが命のパンである(6:35)。」と言われ、御自身が神から遣わされたこと、そして、御父が御子イエスを遣わされた理由を、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである(6:39)。」と教えられたのです。

 わたしに与えてくださった一人一人とは、まさに、主の呼びかけに「あなたこそ我が主、我が神です。」と応える私たちのことであります。その私たちは終わりの日に私たちが復活する時まで主の御手の内に委ねられているのです。終わりの日、これが私たちの目的地であります。その時まで、主イエスとの豊かな関係のうちに祝福された人生を歩み、主が約束してくださる終わりの日の復活に大きな希望をもってたゆまず歩むものでありたい、そう願います。

越谷教会 須賀 舞牧師
(すか まい)
 





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