2024年6月のみことば |
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」 (マタイによる福音書9章14~17節) |
1. 断食についての問答 イエス様を救い主として信じることの恵みを伝える福音書には、イエス様が当時のユダヤ教指導者であった律法学者やファリサイ派の人々と言葉を交わしている場面が多く出て来ます。イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べられて、天の父なる神様が下さる罪の赦しの恵みを信じ、神様に信頼して歩むようにと説いています。 これに対して、旧約聖書に詳しかった律法学者やファリサイ派などが、彼らのユダヤ教の律法に準じる慣習に等に照らし合わせ、型破りな仕方をするイエス様に対して批判を強めていきます。そして、最後には群衆が喜んでイエス様の言葉に従っていく様子を見て、彼らは嫉妬に駆られて、イエス様を陥れようと画策するようになっていきます。イエス様のことを、神様を冒涜していると訴えている場面さえありました。 さて今日の箇所で、イエス様はヨハネの弟子たちと言葉を交わしています。このヨハネとは、洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネとは、イエス様の時代にヨルダン川で洗礼をさずけており、イエス様にも洗礼を授けました。ヨハネはイエス様の誕生に先駆けて生まれ、救い主(キリスト)が来られることを人々に伝えていました。更に、洗礼者ヨハネは、彼の後に来る救い主は「わたしよりも優れている」と人々に伝えていました。 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は…聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 このように救い主であるイエス様のことを賞賛しているのです。そのヨハネの弟子が、今日の箇所では、イエス様と言葉を交わしているのです。どのようなやり取りであったのかを見てみますと、14節でヨハネの弟子がこう言っています。 「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食をしているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか」 この後、マタイ11章では、「来るべき方(=キリスト)はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と洗礼者ヨハネ自身が弟子を遣わしてイエス様にたずねていました。この9章の時点では、ヨハネの弟子たちもイエス様が来るべき、救い主であるとは分かっていなかったのです。そこで、彼らは「イエス様、あなたをお待ちしていました。話を聞けるのを待ちわびていました。」といった喜びではなくて、むしろ批判めいた論調で言葉を交わしているのです。ここには不信感や嫌悪感さえもにじみ出てしまっています。「あなたは…」と直接的にイエス様を名指しで批判はしていませんが、「あなたの弟子がこうしている…」というのは、「あなたはそのように教えている」と責めていることと同じです。 なぜ、そこまで断食について批判をされてしまったのでしょうか。当時のユダヤ教の慣習では、一年間に5日、自分の罪を神様の前に悔いて食事を絶つ、断食の日が定められていました。ファリサイ派の人々は、この5日間に加えて、さらに毎週月曜日と木曜日に、週に2回断食をしていたのでした。これらをしていないとなると、神様の前に罪を悔いていないのではないか、また断食は食を絶って神様に祈りをささげる時でしたので、十分に祈っていないのではと見られてしまったのでしょうか。 2.誰のために断食をするのか、誰に向って食べるのか このヨハネの弟子たちの問いに対して、イエス様は婚礼の譬えをお話しになります。 「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」 先日、私の牧師の友達が結婚しました。礼拝の中で結婚の誓約をした二人が、披露宴のひな壇に上がると、式場は楽しい、そして嬉しい雰囲気で満たされました。数々の祝辞が述べられる中、披露宴に招かれた来賓の座るテーブルには、美味しそうな食事が並べてありました。このお祝いの席で、それぞれの事情があったとしても、全く食事に口をつけないというのは、めったにありえない状況ということは容易に理解できます。現代の今の私たちの事情で考えると、アレルギーや、その他の病気を理由に、食べたくても食べられない…ということはあるかもしれません。しかし、ここでイエス様がまず第一に注目されていたこととは、婚宴の席で一緒に食事をするということが、参列者自身の空腹を満たすためではなくて、結婚を祝うためであるという点です。婚宴においては、飲食が祝いの式の根幹を成しているのです。 この婚礼の譬えのなかで、花婿というのは、救い主(キリスト)であられるイエス様のことを指しています。イエス様ご自身を花婿とする婚宴の譬えをここで話されているのです。そこで、「花婿が奪い取られる時が来る、そのとき、彼らは断食をすることになる。」と言われているのは、これからイエス様が逮捕され、十字架に掛かられ、贖いの死を遂げられることを指し示しておられるのです。 天の国はよく祝宴に譬えられます。そこでは、花婿がイエス様、花嫁はイエス様を信じる私たちキリスト者なのです。ですから、この教会も、この地上にありながらも、天の国の恵みを先取りして表す、イエス様の婚宴であると言うことができるのではないでしょうか。そして、この礼拝の中で、聖餐式を行います。イエス様を信じて洗礼を受けたキリスト者が、わたしたちの罪の贖いのために、イエス様が十字架で血を流され、その身を割かれたことを覚え、罪の悔い改めと、救いの恵みへの感謝と喜びを持って、パンと葡萄液をいただくのです。 この箇所では、まずはヨハネの弟子たちがイエス様に「なぜ断食をしないのか」について問うていました。ところが、イエス様がその返事としてお話しになった、婚宴の譬えの中に明白に示されているように、肝心なこととは「断食するのか、断食しないのか」ということではなく「誰のために断食をしていますか」、また食べるのであれば「誰のために食べていますか」ということなのです。 あなたがしていることは「神様のためですか」。それとも「人の目を気にして、自分の評判のためにしていますか」ということです。これは、牧師であるわたし自身も襟を正される思いがするイエス様からの問がここに秘められています。 イエス様は、このことを更にはっきりとお示しになるため、二つの「新しさ」と「古さ」の譬えをお話しになりました。洋服にあてがう布切れの譬えと、ぶどう酒を入れる革袋の譬えです。 3.神様の前での「古さ」と「新しさ」 「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。」(16節) この譬えの中で、「織りたての」という言葉は、もともとの新約聖書が書かれたギリシャ語の聖書では「水などにさらしたことがない」という言葉になっています。つまり、水にひたしたことがなく、まだ「縮んでいない布」なのです。その真新しい布を、洗濯などで既に「縮んでしまった古い布」の洋服にあてがってしまうと、後に洗濯した際に、その新しい布が縮む際に、他の古い布の部分を引っ張り、割けてしまうのです。 「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。」(17節) 当時よく用いられた「革袋」は羊や子牛の革で作られたもので、古い革袋というのは伸縮性を失ってしまっていました。そこに、まだ発酵が不完全な新しいぶどう酒を入れてしまうと、発酵によって炭酸ガスが生じます。すると古い革袋が膨らみ、古い布は柔軟性を失っている故に耐え切れず、割けてしまうそうです。 これらの譬えの中で「織りたての…新しい布」または、「新しいぶどう酒」と言われているのは、イエス様が人々に宣べ伝えられた福音です。イエス様のご生涯、十字架と復活によってわたしたちに示された、御子イエス・キリストの贖いの恵み。この恵みを信じて、神様に罪を赦していただき、義とされる。人類にとって新たな救いの恵みとしてもたらされた福音は、それまでの断食や動物犠牲といった律法を守ることに徹してきたユダヤ教の恵みの概念では受け止めきれないものであり、また信仰のあり方でした。イエス様が示された愛と表現しても良いかもしれません。 イエス様の示された、天の父なる神様の愛を信じて悔いあらめる福音の恵みが「新しい」と言われ、断食をして罪の贖いのいけにえを繰り返しささげる律法の恵みが「古い」とここで言われているのです。 それでは、今日の教会でイエス様に礼拝をささげ、「新しい」福音の恵みを既に知らされているキリスト者にとっては、ここでなされたイエス様とヨハネの弟子たちのやり取りについては、「もう分かっているから済んだことだ」と言ってやり過ごしても良いことなのでしょうか。 実は、ここでの「新しさ」というのは時間的な新しさや、精神的な新しさ、肉体的な若さとはまた違った、神様の前での「新しさ」なのです。神様を全ての中心に据えて、神様の愛に生きることの「新しさ」が言われているのです。ですから、日々わたしたちはイエス様の御言葉に触れて、霊を新たにされつつも、わたしたちを支配しようとする自己中心的な「古さ」が心の内に顔を出してしまうという、「古い布、古い革袋」との葛藤があるのです。イエス様が十字架で血を流してそそがれた貴い恵みを、何とかして人を羨み、争いを好んでしまう、人間的な「古さ」と調和させようとする誘惑が、いつもわたしたちを取り巻いているのです。元々の「誰のために断食をするのか、誰のために食べるのか」という問いは、「わたしたちは誰に向かって、誰のために生きているのか」という問いに繋がっていくのです。 4.神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。 「誰に向かって、誰のためにわたしたちは生きるのか」について、聖書はわたしたちは「生きるとすれば主(イエス様)のために生き」るのだ(ローマ14:8)と明確に伝えています。 イエス様はわたしたちに、この譬えをもって、誰かの歩みを「古い」、「新しい」、と言って指さすこと勧めているのではありません。むしろ、わたしたち自身を省み、イエス様が命に代えてわたしたちに与えてくださった、主の十字架による罪の赦しの福音を受けた者に相応しい歩みができていますか、と自己吟味することを勧めておられるのです。 わたしたちはイエス様、そして天の父なる神様から愛され、罪を赦していただいています。しかし、そのわたしたちが職場や家庭、学校へと出て行く中で、他者のとの人間関係の中で、時として神様の愛を忘れてしまうこともあります。互いに敬い、仕え合うのではなくて、いがみ合ってしまうことさえもあります。牧師であるわたし自身も、言葉のやり取りがヒートアップしそうになり、「このやり取りは誰のために行っているのだろうか」とハッとさせられたことがありました。 イエス様の十字架を通じて注がれた愛とは、相いれないわたしたちの姿。イエス様の十字架上でわたしたちに与えられた無条件の愛とはなじまない、わたしたちの「古さ」。それらを人間の手によって、払拭することはできません。これは自戒の念も込めて言いますが、むしろ自分は悪くないのだと、その「古さ」にしがみついてしまうかもしれません。それでも、わたしたちが自らの古さ、破れを認めて告白し、自分自身を「イエス様のために」と祈ってイエス様の御手に委ねるときに、わたしたちは新しくされます。わたしたちに注がれた聖霊なる神様の助けのもとに、わたしたちは「…古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ」るのです(コロサイ書3章7節)。 イエス様のもとにある「新しさ」とはわたしたちの年齢は関係ありません。聖書にはわたしたちの肉体である「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二4章16節)と言われており、更には「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント二5章17節)であるとさえ言われています。 わたしたちにとって「新しい布」、「新しい革袋」とはイエス様の言葉を聴き、イエス様の愛にとどまる中で、わたしたちが神様の霊である聖霊なる神様の助けによって、新しく生まれ変わらせていただくことなのです。 この恵みを先取りするかのように、既に詩編51編では、神の前に悔い改める者の霊を新しくしてくださいと、祈られています。 「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。 御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。 …神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編12~14,19節) 過ぐる聖霊降臨節(ペンテコステ)には、天の父なる神様とイエス様のもとから、わたしたちの助け主・弁護者として聖霊なる神様が注がれました。この聖霊なる神様の助けをいただいて、わたしたち新しく造りかえていただきましょう。新しく柔軟な心を与えていただき、互いに愛し合いなさい、仕え合いなさい、隣人を愛しなさいという神様の招きに応え、共に主の十字架の愛を証ししていきたいと願います。 |
本庄教会 疋田義也牧師 (ひきた よしや) |
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